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2023年9月14日木曜日

千玄室大宗匠と「和の心」@靖國神社



 本日、令和5年9月14日(日本時間)、下記の国連本部で行われた献茶式についてのニュースが流れました。



驚きました。丁度、本日、靖國神社で参拝を終え、境内の日本庭園で、
千玄室先生が奉納された「和の心」の石碑を拝見しておりました。

石碑の左隅には、「元海軍中尉」と書かれています。
千玄室大宗匠は、本年百歳を迎えられましたが、
戦争をご体験され、元海軍特攻隊員でいらしたと伺ったことがございます。

実は、昨年(2022年、令和4年)3月に、靖國神社で行われました
「全国特攻隊員戦没者慰霊祭」に、
千玄室先生(99歳)がご参列されたお式に、私も二十歳を迎えた息子と共に参列させて頂きました。
下記は、その日のお写真です。
いつも静かに遊就館の入口の脇の方に、人知れず立っている特攻隊員の銅像ですが、
この日は、華やかな花が手向けられていました。
境内も、早咲の桜が美しかったです。






2020年10月1日木曜日

十五夜(お月見)

 今日は、中秋の名月、十五夜でした。

 月を見て、思い出すのが、高校生の時、フランスの老婦人から聞いたお話です。

「かつて夫(おじいさん)が戦争に行っている時、ああ、同じ月を見ているのだなあ、と思いながら、帰りを待ちました。」と、歩いて夜の月を眺めながら、私にフランスのおばあさんが語ってくれました。

 「天の原、ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」(阿倍仲麻呂)

 奈良の風景を思い浮かべる、百人一首のこの歌も好きです。

 ♪うさぎ、うさぎ、何見てはねる、十五夜お月さん、見て、はー(ああ)ねる♪

 あれ、うさぎさんは、月の中にいるのでは?

 十五夜に欠かせないのが、お月見団子とすすき。
 東京にいると、ススキはなかなか手に入りませんが、今頃、箱根の仙石原あたり、もうすでに寒くて、すすきの原が秋らしく、風にそよいでいるのかも。

 お月見団子はこの季節だけだけれど、お月見うどんなどは、一年中ありますね。
 そうそう、三笠山と言えば、どらやきも美味しいです。

 やっぱり、食いしん坊の私にとって、秋は、味覚、食欲の秋です。
 今日は、初物の栗を茹でて、頂きました。
 秋の収穫に感謝です。

 

2020年8月9日日曜日

「祈りの長崎」を訪れて

 
11年前(2009年、平成21年)の今日8月9日、私は、「原爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列していた。
 あれから11年、今日(2020年、令和2年8月9日)も、長崎では、あの日から75年目を迎え、人々は、核兵器のない、平和な世界を祈り続ける。
 8月6日投稿の本ブログで、広島には何回も行ったことがあると書いたが、長崎は11年前が初めてだった。現地で手にしたパンフレットに、「怒りの広島、祈りの長崎」と書いてあったのが印象に残っている。以下、当時の報告書に掲載された拙文を、ほぼそのまま引用する。
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三人の長崎人(「永」先人)との出会い
                         2009年8月11日 鈴木くにこ

 2009年8月8日(土)、私は、初めて長崎の地に降り立った。海と山とに囲まれた穏やかな風景が私を包むように迎えてくれた。今回の訪問の目的は、「平和への祈り」。東京都千代田区平和使節団の一員として、8月9日に行われる「被爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列した他、原爆落下中心地、原爆資料館、平和公園、浦上天主堂、城山小学校、山里小学校等の被爆跡地を訪ね、千代田区民の方々が平和への思いを込めて折った千羽鶴を献架し、祈りを捧げた。一つ一つの場所で、多くのことを感じ取った。今回の訪問が私の人生観を変えたと言っても、過言ではない。それぞれ詳細に述べたいが、(今報告書では一人二頁と決まっているので、)ここでは、三人の長崎人との出会いに関して、記すこととする。偶然、お三方とも「永」という漢字が苗字につく。永久平和を願う長崎人(「永」先人)としてご紹介する。

Ⅰ故永井隆先生との出会い
 永井隆先生の生き様は、私の心に大きく響いた。永井隆記念館を訪問する前から、長崎市内の様々な場所に、永井先生の足跡を見ることが出来た。山里小学校内の「あの子らの碑」、そして城山小学校前の「永井坂」。今でも長崎の人々に尊敬されている先生のお姿が感じ取られた。永井隆先生は、長崎医科大学の放射線専門医として白血病を擢った上、長崎への原爆投下の日に被爆し、重傷を負った。にもかかわらず教護隊を組織して負傷者の治療に当たった。病に倒れられてから亡くなるまでの6年間に、床に伏しながら、 『長崎の鐘』を始め15冊以上の書籍を書きあげた。印税は将来の子供たちのために寄付し、自らは二畳の質素な「如己堂」で生涯を閉じる。永井隆先生は、従軍医師として二度、中国にも赴いている。医療に国境はないと、国籍に関係なく治療をしたと言う。永井隆先生の存在は、長崎の方々のみならず、日本人一人一人が誇りに思い、お手本にすべきものであり、また、世界の人々にも訴える普運の尊さがある。なかなか真似の出来ない生き方であるが、そのほんの一部でも見習たいと感じた。永井隆先生の言葉より。「どん底に大地あり」。被操の焼け野原にミミズを見つけた時の生命への喜び。常に希望を失わずに実行する力、そして明るさ。今の私達日本人に必要なものではないだろうか。

Ⅱ永野悦子さんとの出会い
 永野悦子さんは、被爆者の一人として、自らの御経験、そしてご自身の胸の内を、私達に語って下さった。当時16歳で、学徒動員で長崎にいたが、鹿児島に疎開していた13歳の妹と9歳の弟を無理やり長崎に連れ戻してしまい、その二人が被爆してせくなったことに、80歳の今でも自責の念に駆られていらっしゃった。「心の傷」は体の傷よりも深く辛いことを感じた。被爆直後の弟さんの身体は皮がs剥げ、抱くことさえ出来なかったこと、被爆から3日後に亡くなった弟の遺体に、自分達家族で火を付けて焼かなければならなかった辛さ、毛が抜け体中に斑点ができ苦しみながら1ヶ月後に亡くなって行った妹、50年間のお母様との心の葛藤と「ありがとう、ごめんね。」の和解、等々、淡々と語って下さる永野悦子さんを前に、私は涙をこらえることが出来なかった。今年で被嫌から64年を迎えるが、永野さんは、最初の50年間、経験した「生き一地獄」のことは忘れたく、言葉にすることさえ出来なかったと言う。が、亡くなった家族が生きていた証を残したい、被爆体験を語らなければいけないという思いから、話を始められた。そう思うと、私達は、「沈黙の声」にもっと耳を傾けなければならないのではないか、と感じた。

Ⅲ岩永信一さんとの出会い
 岩永信一さんは、単なるタクシー運転手さんではない。岩永信一さんは、長崎に誇りをもち、長崎の歴史・文化をこよなく愛し、それを私達に、心を込めて説明して下さった。被爆二世として、被爆されたお母様の苦悩も、静かにお話し下さった。被爆をされた後遺症で、坂を上るのも疲れ(長崎は驚くほど急坂の多い町である)、すぐに横になることが多かったそうだ。今でこそ、「被爆認定」されることが悪いこととはされないが、当時は、被爆者であることで、結婚できなかったり、就職できなかったりした。それ故、被爆のことは一言も口にせずに亡くなった方も多かったそうである。ここでも、「沈黙の声」が聞こえる。浦上天主堂の秘話も教えて下さった。当時、「東洋一」とまで言われた浦上天主堂の裁爆直後の写真は、数年前まで公開されなかったそうだ。世界遺産となっている広島の原爆ドームの数倍の規模での破壊。当時の長崎市長は、市民とともに、この被爆跡を残そうとしたが、米国の圧力で難しかったらしい。一部のみ、今日も残っている。

 長崎の郷土料理に、「卓祇(しっぽく)料理」というのがある。岩永信一さんによれば、地元の人は、これを「和華蘭(わからん)料理」と呼ぶらしい。すなわち和洋中折衷、様々な文化を取り入れた料理ということだ。そして、長崎の人々は、朱色の円卓を囲み、身分上下の差なく皆平等に料理をつまむ。長崎人が大切にした、異文化との共存共栄の道が、この食文化にも表れている気がした。そして、これは世界の平和にとって大事なことだ。岩永さんの心温まる応対、お気遣いにも感謝している。冷たいお手ふきと飲み物を用意して、暑い長崎市をご案内下さった。長崎人のホスピタリティ・を感じた。

 歴史は人が作る。穏やかな長崎人との出会いを通じて、多くのことを感じ、学んだ。「平和の祈り」の旅は、終わらない。千代田区平和使節団の役割は、世界で戦争が絶えない限り、続く・。.。(合掌)
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 当時、長崎の永井隆記念館の館長をされていた、永井博士のご子息の永井誠一(まこと)さんから、1枚のしおりを頂戴した。そこには、「被爆地長崎に足跡を残したあなた、これからのその足で世界を歩いてください。」と書かれていた。
 世界を歩く時、世界中に広めたい数式がある。「6+9=15」。数は世界共通である。足し算は小学校1年生で習う。広島、長崎、終戦記念日、日本の8月は忘れられない。これも「ながいまこと」さんがしおりの裏に書いたこと。
 今日も、11年前と変わらず、長崎には暑い日差しが照らしていた。

 

2020年8月2日日曜日

李登輝総統と武士道


 

 

2020年7月30日夜、李登輝元台湾総統が97歳でご逝去された。
 李登輝総統は偉大な指導者であった。「台湾民主化の父」等、台湾の政治、国家の発展にご尽力さえた功績は多大なものである。
 が、一日本人として、忘れてはならないのは、
李登輝総統が、武士道精神を教育の中心に据えることの重要性を常に説いていらしたことである。李登輝総統がお書きになられた『武士道 解題』(小学館、2003年)の「はじめに」の一部を以下に引用する(下線筆者)。

「いま、私たちの住む人類社会は、未曾有の危機に直面しています。」  
「世界各地でますます不穏で危険な動きが増大しつつあります。 しかも、政治や軍事 の面ばかりではなく 経済の面でも「大恐慌の再来か」と言われる世界同時不況の予兆 が日増しに高まり、人々の不安や不満は募る一方です。」
 「人類社会全体がこのよう な危機竿頭の大変な状況に直面している時だけに、 世界有数の経済大国であり平和主義国家でもある日本および日本人に対する国際社会 の期待と希望はますます大きなものとなりつつある、と断言せざるを得ませ ん。数千年 にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、六十億 人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです。
 私自身が日本の教育の中で豊富な知育と徳育を授けられ、それを通して知識や知恵に目覚め、「人間いかに生くべ きか」という根本的な哲学や理念を身につけてきた からこそ、なおのこと、この人類史的危局の中において必要とされている「日本の心」 の大切さを、思い起こさずにはい られないのです。
 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
これは、私が敬愛する新渡戸稲造先生の名著『武士道』の中で改めて紹介されて いる本居宣長の和歌ですが、この「大和心」こそ、日本人が最も誇りに思うべき普遍的 真理であり、人類社会がいま直面 している危機状況を乗り切っていくために、絶対に 必要不可欠な精神的指針なのではないでしょう か。
 しかるに、まことに残念なこと には、一 九四五年(昭和二十年)八月十五日以降 の日本においては、そのよう な「大和魂」や「武士道」といった、日本・日本人特有の 指導理念や道徳規範が、根底から否定 され、足蹴にされ続けてきたのです。」
「依然として前途に明るい曙光を見いだしえぬ今日のような窮地にあって、 そのような自虐的価値観は日本人ばかりではなく、世界の人々にも大きな打撃と失望を与えずにはおかないのです。なぜなら、国際社会全体が不況と不安に晒されているときに、最も頼りになるべき国のひとつ(日本および日本人)まで混乱と混沌の中を漂流し続けていたら、人類社会そのものが羅針盤を失いかねないからです。いま日本を震撼させつつある学校の荒廃や少年非行、凶悪犯罪の横行、 官僚の腐敗、指導者 層の責任回避と転嫁、失業率の増大、少子化など、これからの国家の存亡にもかかわりかねないさまざまなネガティブな現象も、「過去を否定する」日本人の自虐的価値観と決して無縁ではない、と私は憂慮しています。そして、この傾向をこのまま放置しておけば、日本だけではなく世界全体が不幸になる、と心の底から危惧しているのです。」
「ここであえて、「日本および日本人の醇風美俗」や「敷島の大和心」、もっと単刀直入に言えば「武士道」について声を大にして大覚醒を呼びかけ、この書を世に問わねばならなかったのです。この点にこそ、いま人類社会全体が直面している史上いまだかつて経験したこともないような危機的状況の深刻さがあると言えましょう。」

 李登輝総統の残された言葉は、現在、世界が新型コロナウィルスの感染拡大で不安な毎日を暮らしている状況で、なお身に染みて感じられる。
 この後、李登輝総統は、新渡戸稲造の『武士道』から引用をされる。
 そして、激動の時代に、日本および日本人にとって、「武士道」がいかに大切で尊く、これからも必要であるかを述べている。日本人である私達には、この李登輝総統の誠実なまでの訴えを真剣に受け止め、実行していくノブレス・オブリージュがあるのではないか。

 実は、筆者は、昨年、令和元年5月から「新渡戸稲造の『武士道』を英語で読む会」を主宰し、仲間を募り、難解な原文の英語を、矢内原翻訳(岩波文庫)を片手に読み解いてきた。
 そこで気づかされた事は、日本の道徳的価値観や伝統的習慣に、現在忘れかけている多くの美徳があるということである。
 そもそも、新渡戸の『武士道』を英語で読もうとしたきっかけは、英語能力の向上と、日本文化を知ることにあった。東京オリンピック・パラリンピックを前に、「日本のおもてなし」の心は何か、フェアプレイ精神と武士道の関係は何か、世界中の人々を迎える日本人が持つべき指針を探求していたのかもしれない。
 今回、李登輝総統は、そんな筆者に、大きな自信を与えて下さった。新渡戸稲造の『武士道』を選んだのは間違えではなかった、と。それ以上に、もし日本と日本人が、その武士道精神を取り戻し、世に示すことができれば、それは人類の危機を救う羅針盤になるかもしれないとの発想は、この混沌とした世界に大きな希望を託された思いがする。

 李登輝総統に心からの感謝を捧げながら、尊敬の念とともにご冥福をお祈りしたい。


 その李登輝総統のご遺志に報いるには、私達日本人一人ひとりが自信と誇りを取り戻し、「日本の伝統的価値観の尊さ」を再認識して実行して行くことが大切だろう。
 筆者は、今日から一歩を進めたい。藤井茂・長本裕子著『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』(新渡戸基金、2016年)を活用しながら、毎日、その中の新渡戸の言葉を拝借し、自分達が現在感じることを一言でも表現して、心ある方々と交流して行きたいと思う。そこから、また発展があるかもしれない。

8月1日 「隣家の財は多いもの、隣家の飯は甘いもの、とかく他人を羨みたいは人情だ……、だが羨む心も向けようで、貪り、妬みにもなるし、励み、競いにもなる。」(新渡戸稲造、『帰雁の蘆』)

 「隣の芝生は青い」という表現があるが、他人のものは、何となくよく見える。幸せそうだとか、得しているとか。でも、それは、そう見えているだけで、実は、見えない所では、案外苦労しているかもしれない。わからないものである。だから、見ただけで判断しない方が良いかもしれない。あとは、新渡戸が言うように、あの人が出来るなら自分だってやってみようとか、そうなるために頑張ろうとか、良い意味の負けず嫌い、プラス思考が大切なのだろう。(鈴木くにこ)

8月2日 「我々が恥ずかしいと思うだけにとどまるならば、何の効果もない。早く心を改むることが必要である。しかるに自分の不足を感ずることは案外にやすい。特に頭脳の鋭敏な人は、……自分の短所にもよく気づくものである。」(新渡戸稲造『世渡りの道』)

 人間誰しも、完璧な人はいない。だから、欠点、短所は恥ずべきことではない。ただ、それを隠したり見ないふりで、自分は完璧だと思っているほうが恥ずかしい。「実るほど頭の下がる稲穂かな」、というように、偉大な人ほど、謙虚であり、自分にも厳しい。(鈴木くにこ)


*実は、7月から「新渡戸稲造の至言から学ぶ会」の会合を予定していましたが、このご時世で取りやめました。これからWeb上で意見交換をして行きたいと思いますが、ご興味のある方は、以下にご連絡下さいませ。
NipponIA2020@gmail.com

2020年7月24日金曜日

海の日:「海洋国日本の繁栄」



 今日、2020年7月23日は海の日の祝日でした。
 2003年の「ハッピー・マンデー制度」から7月の第三月曜日が海の日の祝日になっていますが、今年は、新型コロナウィルスの感染拡大がなければ、明日7月24日が東京五輪の開会式でスポーツの日の休日になり、その前日に海の祝日が来ました。
 でも本来、海の日は7月20日なのです。それには意味があります。
 ちょうど10年前の2010年、私は、あるところで、7月20日がなぜ海の日なのかの理由を書いていました。




そして、今から16年前、2004年7月、私は、「政策空間」という当時存在していたネット上の政策提言サイトに、「海洋国家日本の戦略」と題する論考を投稿しました。そこでは、56年前の1964年(初めての東京オリンピックの年でもある)に高坂正尭先生がお書きになった「海洋国家日本の構想」を引用している。今でも示唆に富む内容である。



現在、日本周辺の海洋は、穏やかではない。海の安全も、漁業資源の保護や鉱物資源の開発も、さらには海洋環境も、さまざまは方面から脅かされている。
 そんな海から数々の恩恵を受けて生きながらえてきた日本人。これからは、美しく平和な海を保つために不断の努力をしなければならない、そんなことを考える海の日でした。
 7月20日、日本文化チャンネル桜の「フロント・ジャパン桜」の番組がありました。
「海の日」のこと、尖閣諸島や沖ノ鳥島にも触れました。どうぞ、ご覧下さいませ。















2020年7月1日水曜日

香港よ、永遠に―――。

 本日2020年6月30日は、香港基本法で2047年まで保証されるはずだった「一国二制度」が終焉した日と、世界は記憶するだろう。
 香港で民主化を推進してきた人々は、涙を呑んで、民主派政党を解散させ、そこからの脱退を公に宣言して、明日からの新たな社会で、生活の生き残りをかける。「生きている限り、希望がある。」「絶望の先にも、きっと希望が。」、淡々と語る彼らの姿勢と、今までの行動に敬意を表したい。そして、彼らの生きる今後の世界が、より自由で民主主義的かつ思いやりのある社会になるよう、私達1人1人が努力すべきだろう。
 私が初めて香港の地を踏んだのは、丁度40年前の1980年の12月。ガール・スカウト(香港では、「女童軍」と記していた)の国際行事、International Gatheringに参加するためだった。テーマは、東西文化交流、East-West Encounter。当時の香港は、英国の統治下で、至る所で異国情緒を感じることができた。島にある大きなキャンプ場で、世界各地から集まったガールスカウト、ガール・ガイドの友人達と寝泊りし、仲良くなった。香港の友人が、きれいな英語で、寝る前に「清しこの夜」Silent Night, Holy Niightを歌ってくれたのを覚えている。朝起きた時の挨拶、「ゾウ(早)サン」は、発音が「象さん」と似ていて、すぐ覚えた。それから、有難うを示す「多謝(トウチェイ)」も好きでよく使った広東語である。北京語の「謝謝(シェイシェイ)」よりも、もっと感謝がたくさん多くある意味合いで気に入った。キャンプ場で食べた朝ごはんの御粥の味と雰囲気も忘れられない。チキンの骨を取り出しながら、鶏だしのきいたお粥を外で頂いた。12月だが温暖だった。香港人の友人とたくさんと過ごし、とにかく楽しかったが、キャンプ場で、ふっと英国統治を感じることがあった。閉会式が開催された広い運動場にヘリコプターで降り立ったのが、西洋人のシルバー・グレーの紳士。行事のスポンサーや主催者等「お偉さん」も、生粋の香港人ではない方が殆どだった。
 2度目の香港訪問は、1995年。第二次世界大戦後50周年の年。そして、翌1996年夏にも、香港を訪問した。偶然、終戦記念日のパレードにあたった。一緒に見学していた中国専門家の友人が、「来年からは、人民解放軍がパレードするようになるのかなあ。やな感じ。」とつぶやいていたのを思い出す。
 1997年7月の香港返還。ユニオン・ジャックが下された。そこから「一国二制度」が始まった。サッチャー英首相と鄧小平主席が交渉した香港基本法。本当は、英国は香港全土を返還する義務はなく一部は維持できたが、当時の英国は景気が良いとは言えず「小さい政府」で香港の維持費も節約したかったのだろう。長い交渉の後、サッチャー首相は、鄧小平主席のことを「タフ・ネゴシエーター」と呼び、ふらついたと言う。香港の民主制度と経済上の特別な地位は、50年間、すなわち2047年まで続くはずだった。国際社会は、中国も改革開放で資本主義を導入すれば民主化されると幻想を抱いた。結果は、逆だった。中国は外国資本や技術を導入し、資本主義の市場を相手に、著しい経済発展をし、それをもとに軍拡も推進し、共産党の力を増強した。1989年6月4日の天安門事件に見るように、中国内でも若者を中心に民主化運動はあったが、その都度、弾圧されてきた。1989年の天安門の時、弾圧から逃れ西側に亡命しようとする中国人たちを助け、その出口となったのは香港だった。
 2011年12月、香港返還から約15年たった香港を再訪した。空港に到着した途端、すぐに中国化したことがわかった。近代化した大きな建物で出迎えてくれたのは、大陸の舞踊団の舞。入管の人の態度も何となく冷たかった。j街中もすっかり変わってしまった。異国情緒というよりも開発、開発。とにかく建物が乱立し、ブティック等が入った近代建築が所狭しと並んでいる。一方、意外と英語が通じづらくなっていたり、夜になるとバス停前で大陸から来た人が新聞を売ったり、公害や通りのごみ等が目立ったりした。香港では、何年か先まで、病院の出産予約がいっぱいだと聞いた。大陸の人達が、何とか「香港ステータス」を得て、いざという場合に備えたいのだろう。
 そして2014年の香港の雨傘運動。民主化、「一国二制度」崩壊の危機を、香港の人達は、6年前に分かっていた。それでも中国の共産党は強硬姿勢を変えるどころか強めた。昨年2019年、香港人の為の香港人による司法制度が瓦解されることへの反発から、平和的デモは始まった。香港人の団結は長く続いた。しかし、共産党中央政府は、たがを緩めず、国際的には不評の「香港国家安全法」を通し、とうとう「一国二制度」は終焉した。
 香港の人々は、民主派政党を解散し、表向き共産党制度を受け入れる選択をした。生き残るための知恵、苦渋の選択だっただろう。国際社会は、民主的香港を助けることは出来なかった。
 今から約150年前、1873年に書かれたアルフォンス・ドーデの「最後の授業」が思い出される。フランスのアルザス地方がドイツに割譲されることになった時、授業の最後、先生は黒板に、フランス語で、Vive la France(フランス万歳)と大きく書いた。
 この23年間の香港の「一国二制度」の歴史を、私達は忘れない。
 香港よ、永遠に―――。
 多謝

 今日6月30日は、日本では、「夏越の大祓い」にあたる。今年前半の天下万民の罪や厄を御祓いして、今年2020年の後半を健康、清らかに過ごせるようにする。新型コロナウィルスの感染も止まないが、まずはお祓いして、明日から、新たな気持ちで生きよう。

  
 

2020年6月13日土曜日

日本文化から見る新型コロナ対策

 新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、日本では4月8日に緊急事態宣言が発出され、5月26日に解除された。日本の外出制限は、他国のような強制的禁止ではなく、自粛、協力要請という緩いもので、当初は、その効果が疑われたが、幸い、医療崩壊を起こすことなく、全国民の一致団結した努力により、感染爆発を防ぐことができた。
 もちろん、新型コロナウィルス感染者は収束したわけではないので、まだ油断はできない.
が、気を引き締めてばかりいて息切れしてしまってもいけないので、次の第二波の到来に備えて、気を引き締めなおすためにも、一瞬息抜きの時間が必要だろう。
 そこで、日本文化の諸要素が、新型コロナウィルス感染防止に役立ったのではないかということを、少し元気づけのためにも語ってみたい。
 第一は、日本人のきれい好きが功を制した。家に入る時は、靴を脱ぐ等、外部の汚いものをなるべく内に入れないようにする。小さい時から、帰宅したら、すぐ手を洗いましょうと教えられている。レストランなどに入ると、すぐお手拭きと水かお茶が出て来る。小学校から高校まで、お掃除当番があり、毎日、自分達のお教室は、自分達で掃き掃除、拭き掃除等をする。あるミッション系の学校では、お手洗いまでお掃除させるそうである。お寺さんや神社でも、毎朝の修行?はお掃除から始まる。庭を掃いたり、廊下をぞうきんがけする。与謝野晶子が、總持寺を訪れた時、その床のピカピカのを見て、お堂に足を踏み入れるのを躊躇したと言われ、その時、「胸なりて われ踏みがたし 氷より すめる大雄 宝殿の床」と詠んだ。

  この事は、拙著『オリンピックと日本人の心』でも紹介した(132頁)。その中では、羽生結弦選手が競技前に、部屋をきれいに整えてから出かけること(133頁)、能楽師は能舞台を稽古前に磨くこと等も紹介した。
 日本人のきれい好きは、その衛生観念にも表れている。小学校や中学校では、時々、「衛生検査」があり、きちんとハンカチとちり紙を持ってきているか、爪が伸びていないかをチェックさせられた。お風呂には毎日入る習慣がある。水が豊富な国だからとも言えるが、湯船への入り方としては、たとえかけ流しの温泉であっても、必ずまず全身をきれいに洗ってから入る。最近では、海外からの方が温泉旅館等に宿泊することも多くなったが、身体を洗わずに湯船に入ってしまう人もいるらしく、英語や中国語、韓国語等で、大浴場の入り方の説明がしてある。
 この日本人の衛生観念については、かつて明治の頃、新渡戸稲造が台湾に赴任した時、農業政策や産業復興政策とともに、衛生観念をも教育したと、新渡戸基金の藤井茂理事長が、2020年3月15日号の『太平洋の橋』で書かれている。
 その台湾は、今回、新型コロナウィルスの感染防止対策を、日本よりも上手くやり、世界のお手本になった。日本国内では、今回、最後まで唯一感染者が出なかったのが岩手県だった。その岩手県は、偶然にも、新渡戸稲造の故郷である。
 日本文化が功を奏した第二の要素は、「間」の取り方である。今や世界で、感染防止に、Keep the social distance(人と人との間をあけて)と言われるが、こういう意識は、昔から日本にあった。日本人は、挨拶する時、抱き合ったり握手したりぜず、お辞儀で済ます。遠くから目が合うと、会釈だけして過ぎ去ることもある。「付かず離れず」の人間関係を大事にする。
 もう何年も前にあるが、今上陛下が皇太子時代にタイ王国をご訪問された際、長年タイに住んでいらした日本人の方が、現地の状況を説明されることになった。その時、宮内庁のお付の方から、何メートルも離れてご進講をするように言われ、理由を尋ねると、「唾が殿下にかかってはいけないから。」と言われたそうだ。その方は、ご自身は声が大きいからと納得されていらした。そういえば、日本には、「沈黙は金」という言葉があり、通常、おしゃべりする時でも、あまり大声は出さない。飛沫感染のウィルス予防には、このことはプラスに作用するだろう。咳エチケットも、特別なことではない。約40年前(1982年~1983年)のことであるが、フランスの中学校の社会科の教科書に、東京の写真が載っていて、マスクをしている人は、「公害がひどいから」と説明されていた。それを見せられた私は、すぐさま、「それは違う。マスクは、風邪を人に移さないようにしたり、移されたりしないように、している。」と訂正を求めた。
 「距離を取る」ことを、「空間を取る」と言い直しても良いが、これは、日本文化の様々な所に生きづいている。日本画や書道や生け花等、一つの空間にたくさんのことを詰め込まない。白い部分を残して、それこそ「空間」を大切にする。ごちゃごちゃと賑やかに書いたり、配置したりしない。華やかさに欠ける、「侘びさび」の文化と形容できよう。「蜜集」、「近蜜」は好まれないのである。
 そこから、第三の要素、「風通しの良い」文化にもつながる。日本語の「風通が良い」という言葉は、物理的に空気の通りが良いという意味の他に、人間関係が良い、透明性が確保されていると言う意味もある。前者では、例えば「風通しの良い家」と言えるし、後者では、「風通しの良い組織」ということが挙げられる。日本では、古くから、「家は夏をむねとして立てるべし」と言われてきた(拙著英語版" The Olympics and the Japanese Spirit"135頁)。

縁側があり、外に開かれた家屋を建て、家の中は畳敷きで家具はほとんどなく、部屋の仕切りも、厚い壁ではなく、障子で影や光が透けて見える。固い煉瓦や石で閉ざされた空間はなく、「密閉」されていなかった。木の文化は、水も風も通す。
 「令和」の御代に生きている私達、日本人だが、令和の元号のもととなった出典の万葉集の歌は、「初春の令月にして、氣淑く(よく)風和ぎ」である。ここにも「風の文化」が登場する。そして、今上陛下が、令和2年4月10日、新型コロナウィルスについて述べられたお言葉は次のようなものだった。
「この度の感染症の拡大は、人類にとって大きな試練であり、我が国でも数多くの命が危険にさらされたり、多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後、私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、f現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。」
 この「心を一つにして力を合わせながら」とのお言葉から、筆者は、新渡戸稲造の'Union is Power'という揮毫を想い出した。
 日本人が、そして世界の人々、人類が、心を一つにしてこそ、力が発揮でき、猛威を奮う感染症に打ち克つことが出来るのではないか。そんなことを思った。

 上記のこと、その他のこと、令和2年5月25日の日本文化チャンネル桜の番組「フロント・ジャパン桜」で語っています。是非、ご覧下さいませ(1時間3分~1時間25分位)。


 
 

2020年4月25日土曜日

出雲大社から世界への祈り

 ひと月前の2020年3月24日、お彼岸が明けた翌日、出雲大社をお参りした。
松江城から宍道湖のほとりを通って、出雲大社に到着すると、真っ先に巨大な日の丸が目に入った。


  元自衛官の方でさえ、こんな大きな日の丸は、自衛隊でも持っていないのではないか、というほどの見事なもの。この日は、ご覧の通りの快晴で、雲一つない。地元の人達も、「八雲立つ出雲」というように、この辺りは常に雲ががっていて、こういう日は珍しいという。
鳥居から拝殿へ。
大きな注連縄(しめなわ)の拝殿で参拝。
普通、神社のお参りの仕方は、「2礼2拍手1礼」だが、
出雲大社では、「2礼4拍手1礼」。
注連縄の大きさにも誘われ、大きく4拍すると、氣も心も大きくなる。
拝殿の先が本殿。神様により近い所で、改めて手を合わせる。

 出雲大社の御祭神は、大国主大神。
大国主大神と天照大御神との関係は、出雲大社の以下のサイトで読むことが出来る。
一部を引用しておく(下線は筆者)。
http://www.izumooyashiro.or.jp/about/ookami

「大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。」


「大神様は国づくりの最中、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さいました。この慈愛ある御心への感謝の顕れが、一つ一つの御神名の由来となっているのです。
今では広く“えんむすび”の神として人々に慕われていらっしゃいますが、この“縁”は男女の縁だけではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための貴い結びつきです。そして、日本の悠久なる歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守られ、目に見えないご縁を結んで下さっているのが大国主大神様なのです。」 

伊勢神宮(三重県伊勢市、御祭神は天照大御神)と出雲大社は、陽と陰の関係とも言われる。太平洋と日本海という点でもそうである。そして、北海道から沖縄県の西端の与那国島までのほぼ真ん中に位置する。

 上記の引用で驚くべき記述に気付く。私達の古代からの国造りでは、既に、農業のみならず、医療まで考えられていたこと。「古事記」の「因幡の白兎」のお話でも、怪我して苦しんでいた兎(うさぎ)さんに、治療方法を親切に教えてあげて助けてあげたのが大国主大神様であった。
(http://www.izumooyashiro.or.jp/about/inaba を参照。)
 新型コロナウィルスで、日本も世界も苦しんでいる中での参拝。
大国主大神様は、だまされて苦しんでいるものを医療の知恵で助けることを行動でお示しになっていたこと、「生きとし生けるもの」の共存共栄を唱え、見えない「ご縁」という力で見えない世界を司って下さっている。
 とても有難いご存在。日本の国造りの神様は、この悩み、不安な私達の気持ち、心を癒して下さる、と感じた。
 見えない敵には、見えない力が一番効果的かも、そんなことにも気づかされた。
  
 10月のことを神無月と私達は呼ぶが、旧暦の10月、全国の八百萬神様が出雲大社に集まる。出雲では、その月を「神在月」と呼ぶ。その神々のお宿となるのが、下記写真の建物「十九社」。どんな風に御在室されるのか、想像してみた。




本殿を裏から見た所、うさぎさんも手を合わせる

注連縄の大きいことでよくマスメディアで取り上げられるのが、神楽殿。コンサート等で使用されることもある。左下は真下から撮影したもの。どうやって製作したのか、何人がかりで縄をしめたのだろうか。重さ約1トンと聞いたことがあるが、しっかりつるすのも大変だろう。国造りは、それだけ偉業ということだろうか。 




夜、お夕飯を遅めにして、夕日を拝みに行った。午後6時半頃が日の入り。
 神在月に八百萬神様がご到着するという、日本海に面した稲佐の浜に足を速めた。
 出雲の地から、世界の安泰を祈った。特に、新型コロナウィルスの収束を祈願した。



ただただ祈る。静寂。波の音。風の流れ。
往復、「神迎の道」を通った。神在月に、稲佐の浜に着いた八百萬神様が出雲大社まで向かわれる際にお通りになる道らしい。神を迎える道。日本海に向かって道の入り口に、灯篭のようなものが2柱、門のように立っていた。
 


夕食時、「神様と同じものを召し上がって頂きます。」と出されたのが、下記の御膳。海の幸、山の幸、豪華というより質素である。
 昨年の大嘗祭の報道で見たものと似ている印象。
 感謝して頂いた。出雲にいると、どこでも、「神様」「神様」と言われる。
 「八雲立つ」出雲。雲に隠れていつも見守っていて下さるのかも。w

こんな偶然があって良いのだろうか。いつもあまり見ることのないテレビ。
 この夜、スイッチを付けたら、NHKで、出雲出身の竹内まりやが昨年の紅白で歌った「いのちの歌」の特別番組がやっていた。
 今、この時、この場所で、涙が出た。忘れられない。
♬本当に大事なものは、隠れて見えない♪
♪この命に、ありがとう♬
もう一つ、不思議な偶然が起きた。このブログの3月20日付で、私は、「東京オリンピックは、中止でなく、延期されるべきだ。」と書いた。日本側とIOcで延期が正式に決まったとのニュースがこの3月24日に流れ、出雲で知った。
 私が多くの人の気持ちを記した『オリンピックと日本人の心』(内外出版)は、生命(いのち)で始まり、感謝でおわる本である。「いのちの歌」が主題歌となった出雲を舞台にした連続テレビドラマ「だんだん」は、出雲方言で「ありがとう」の意味と聞いた。何か見えないご縁を感じた。

「オリンピックと日本人の心」は、本年、一部内容を変えて、‛The Olympics and the Japanese Spirits’(The 22 Century Art)として英語で出版された。
 そこで新たに追加したのが、「音楽とオリンピック」についてだが、その中で、私は、ヴァイオリニスト吉田美里さんについて触れた。
 今日、このブログを書きながら、出雲大社のサイトに、吉田美里さんを見つけた。
http://www.izumooyashiro.or.jp/hounous/7308
 彼女は、昨年、(一般にコンサートは神楽殿で行われるが)より神様に近い拝殿で、日墺国交150周年を記念した奉納コンサートを行なった。

2020年1月1日水曜日

謹賀新年 令和2年元旦

 令和の御代に入り、初めてのお正月。
 あけましておめでとうございます。
 2020年は、いよいよ東京オリンピックの年。

 鈴木くにこ著『オリンピックと日本人の心』(内外出版)は、増刷(3刷)が決まり、私のお誕生日1月13日付の出版となる予定です。
 また、英語版"The Olympics and the Japanese Spirit"も、まずは電子書籍で発売されます。
 その題字を、書家の渡邉麗先生に書いて頂きました。

 

 先生についえ、あとがきに、次のように述べました。実際に英訳されて発表されます。

[英語版表紙の題字について]
 美しく力強く、そして動きのある題字”The Olympics and the Japanese Spirit”。書家の渡邉麗先生に書いて頂いた。渡邉麗先生は、2019年(令和元年)産経国際書展にて、栄誉ある最高賞「高円宮賞」を受賞された。書の大家、國井誠海先生の後を継がれ、誠心社の会長を務めていらっしゃる。まさか、このような書の大家の先生に、拙著英語版の表紙を飾って頂けるとは思ってもみなかった。心から深く感謝申し上げる。
 先生が「高円宮賞」を受賞された作品「氣淑く風和らぐ」は、新しい御代「令和」の語源となった万葉集から引用されたものだ。それについて、先生は、「人々が美しい心で文化が生まれ育つ国であるように」という意味合いに感銘された、と述べられている。[i]
 はっとさせられた。本書『オリンピックと日本人の心』の冒頭で、筆者は、本書は一種の日本文化論であるが、それは独善的なものではなく、世界の文化ともつながりがあるかもしれないと述べた。そして、オリンピズムが人生の哲学そのものであり、オリンピックが、創設者クベルタン男爵が目指したように、人間性を高める機会だとすると、その理想は、「美しい心」を持つ人達が築く文化国家の発展なのかもしれない。そんなことを思うと、一流の文化国家であり続けたいフランスから、近代オリンピックが生まれたのも不思議ではないのかもしれない。
 渡邉麗先生は、また、「芸術とは人間そのものであり、」「日々刻々と移り変わる自分の『いのち』を見つめ、表現し、純粋な自己の証しを印すことです。」と述べ、「それは人間の心の奥底でつながり、何ものにもとらわれぬ万人の普遍的共感を呼びさますこととなります。」とおっしゃる。[ii]芸術しかり、スポーツしかり。日々生きていることを刻み、自己表現しながら、人々に感動を与えることがある。何故、オリンピックの競技は、人々に感動や勇気を与えるのだろうか。それは、そこに「いのち」の存在と表現があるからだろう。本書を通じて伝えたかったのも、人の「いのち」と「心」の物語である。
 渡邉麗先生とのご縁を下さったRobert D.Eldridge先生とAlain Roy氏にも感謝する。
 “The Olympics and the Japanese Spirit”――渡邉麗先生の題字は、既にオリンピックの競技が始まって動き出しているように見える。陸上か水泳か、それとも...。皆が元氣に走っている。そんな戯れが聴こえてきそうである。

 


[i] 産経国際書会「会報」(2019年9月号第94号)9頁。
[ii] 現代書の研究誌『誠心』(2019年12月号)1頁。




2019年12月6日金曜日

禅とは?「庭前柏樹子」

 

令和元年(2019年)12月5日、早朝座禅会に参加した。

 お釈迦様が12月の8日間、菩提樹の下で坐禅をして悟りを開いたことから、「臘八摂心(ろうはつせっしん)」という座禅会があり、その1日を体験した。

 40分の坐禅の最中、耳にしたのが「庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)」のお話。


庭に生える1本の大木、樫木でも、杉でも松でも良い。大全として、枝葉を伸ばし、根を深く張る。ただそこにあるだけで、人々が憩いを求めて集い、戯れる。そんな大木の1本になって、ただひたする座る。

 そんな気持ちで坐禅を組んでいたが、入門者の私はすぐ見破られてしまった。僧侶の方が静かに私に寄って来られ、坐禅の仕方を教えて下さった。要点は3つ。

(1)姿勢を整える(足を組んでも正座でも良い)。

(2)呼吸を整える(10秒吐いて5秒吸う。それを4回繰り返して1分)。

(3)心を整える(45度下を見つめ何も音を聞かない。出来なければ目を瞑り川を想像しながら、そこに木の葉が1枚流れて行く上に雑念を置いて行く。自然と雑念は流れて行くので力は要らない)。→「これが一番難しいですね。」と言われる。

 

何だか、私の心の汚れが分かってしまったようで恥ずかしかった。でも、初めての「臘八摂心」の後、心身ともに清々しかった。

 ゴマと梅干の御粥をご馳走になり、その足で、皇居に向かった。

 日本の五穀豊穣を願い、お祈りし、

天皇陛下が神様とともにお供え物を召し上がった大嘗祭が執り行われた大嘗宮。

 青空の下、その神聖なる建物を拝観し、日本の豊かな恵みにただ感謝した。

令和元年師走 鈴木くにこ

2019年11月30日土曜日

新国立競技場の完成にあたり 

 来年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて建設が進められていた新国立競技場が、本日、令和元年(2019年)11月30日、正式に完成した。
 私(鈴木くにこ)は、2018年6月23日のオリンピック・デーに上梓した『オリンピックと日本人の心』(内外出版)が英語翻訳されるにあたり、多少中身を変更し、新たに「東京オリンピックと新国立競技場」について書いた。以下、その部分を引用する。既に、建築家、隈研吾さんには、本文章をお読み頂いた。
(English Version is here:https://kunikosuzuki.blogspot.com/2019/11/the-new-national-stadium-for-tokyo-2020.html)


東京オリンピックと新国立競技場



「日本文化とオリンピック」について書いておいて、国立競技場の建設に触れないわけには行かない。

今や世界的建築家として名を馳せている隈研吾氏が述べていること、彼の著作等を幾つも読んだ。[1]

オリンピックを象徴するスタジアム、特にその中心となる国立競技場そのものが、その時代やその国を映す文化そのものだということを多少なりとも理解した。隈研吾氏自身、一九六四年の東京オリンピックに丹下健三氏が設計した「国立代々木競技場」を見て、建築家を目指したと述べている。建築自体が時に文化芸術であるのだろう。

東京オリンピック二〇二〇に向けての新国立競技場の建設に関しては、紆余曲折があった。最初の「新国立競技場基本構想国際デザイン」コンペでは、イラク出身の女性建築家、ザッハ・ハディット女史の提案が選定された。女性であり今も混沌としたイラク出身ということで、個人的には興味を持ったが、費用や環境面等、再検討され、結局、新たなコンペを行ない、大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所の共同企業体が請け負うことになった。この三者のそれぞれの思いについては、隈研吾著『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか 建築家・隈研吾の覚悟』(二〇一六年、日経BP社)をお読み頂きたい。

一九六四年の国立競技場が、日本で初めてのオリンピック開催への意気込みと高度経済成長期の経済発展を象徴する建築物であったのに対し、二〇二〇年に向けた新国立競技場は、収容人数と規模は拡大したが、別のコンセプトで日本を表現している。

上述した著書等にも述べられているが、「木」をたくさん使用した建築、そして「外苑の杜」の環境を生かした物にするということだ。

古くから、日本は「木」の文化、西洋は「石」の文化と言われてきた。日本では、風通しの良い木造建築に人が住み、宝物を貯蔵する。吉田兼好の『徒然草』第55段にも、「家の作りやうは夏をむねとすべし」と、風の入る涼しい家を想定する。正倉院にしても、高床式の木の御蔵であり、何百年も何千年も前の「絹の道」で伝えられた遠方から届いた宝物を大事に保管する所である。一方、西洋では、煉瓦作りの強固な壁で、風よりも「暖」を重視する。石の壁が敵から身を守る防波堤でもある。

新国立競技場は、「神宮外苑」の中に位置する。「神宮」とは、ここで言う明治神宮の他、鎌倉の鶴岡八幡宮、京都の平安神宮等、大きな神社の呼称で、いわば聖域である。その「外苑」とは、神宮につながる外側周辺のお庭という意味だ。「神宮の杜(もり)」は単なる神宮の「森」ではなく、神宿る森(杜)なのである。「代々木の杜(もり)」という場合、それは、代々木の緑(森林)の中にあるお社(やしろ)である明治神宮を指す。

 もともと日本の神社仏閣は、山の中など森林の生い茂った自然の中に位置した。今では都会の真ん中のコンクリートのビルに隣接して鳥居や祠を見つけることもあるが、もともとは山奥や人里離れた所、または町中でも緑豊かな所である。それは、日本人が自然との共存を大切にし、自然の中に神宿ると思っていたからに他ならない。もちろん、西洋でも、例えば、フィンランド等では、森林に妖精が住んでいると考えるそうで、それがクリスマスや独自の文化を生み出している。しかし、日本語では、例えば、「山を征服する(conquer)」とは言わない。山も路傍の石も虫けらも、皆人間と平等にあると考え、「自然との調和」、「共存」を重視する。

 そんな明治神宮外苑に新国立競技場という大きな建造物が建つ。それに、たくさんの木が使われる。木、森林は、水がなければ育たない。だから、神社の入り口には、湧き水で手を清め口を漱ぐ場所がある。今回、新国立競技場の建設にあたり、旧国立競技場の建設の際に上をふさいでしまった渋谷川が復活すると言う。水の再来が楽しみである。

 

 二〇一八年10月10日、私は、初の東京五輪開催の記念日である秋晴れに、建設中の新国立競技場を見に行った。その時のことを書いたブログを以下に引用する。[2]



 54年前の今日、1964年10月10日、アジア初のオリンピックが東京で昭和天皇の開会宣言とともに始まった。本年(2018年)6月23日、オリンピック・デーに、初めての単著『オリンピックと日本人の心』を上梓した私、鈴木くにこは、その原点に触れようと、当時と同じような秋空に恵まれた10月10日の午後、神宮外苑を目指した。

 スタート地点は、南青山の隈研吾建築都市設計事務所。2020年の東京オリンピックに向けて来年(2019年)11月に完成予定の新国立競技場を設計した所。その息吹を感じたかった。大通りから一歩入った静かな所に、看板を掲げることもなくシンプルに存在していた。一階が竹の小道のある日本料理屋だが、2階以上は明るく開放的なオフィス。
 偶然のことだが、ここを拠点にしたのには、もう一つ意味があった。私が『オリンピックと日本人の心』を執筆する際に、「花は足で生けるのよ。」と教えてくれた友人が、すぐ近くで長年、茶の湯のお稽古をしていたからだ。そのお茶の先生は、つい先日、9月末に最期まで現役で94歳で他界された。友人のお茶会に招かれた時に、2回ほどお目にかかったことがあるが、とてもお優しい先生だった。

 伝統的日本文化と新しい建築、1964年と2020年、そんな二つの時間と空間を融合させながら、10月10日の青山のオリンピック散歩は始まった。
 青山通りから神宮外苑に向かう並木道に曲がる所で、聖徳記念絵画館を真正面に見て、私は、自然と頭を下げていた。何となく会釈してから、並木道を歩き始めた。東京都のシンボルマークである銀杏の葉が地面に落ち始めていて、きれいな可愛い模様を作っていた。まるで、2年後の東京オリンピックの道しるべを示すように。

秋の午後の光に照らされて、緑のアーチの並木道は、昔見た印象派のピサロの絵を思い出させた。1894年にフランスから始まった近代オリンピック、そして今年は日仏国交160周年、その間のジャポニズムや日仏の交流の歴史、そんな中でのフランス絵画の印象派の光が、今日21世紀の秋の東京の穏やかな風景と重なるのが面白い。 


 54年前の原点を求めて、自然の光と空気に触れながら、歩みを進めた。車の音が気になりながらも、ふっと公園の緑の向うに、白っぽい建造物が見えてきた。あれが新国立競技場だろうか…。何だか隠れた宝物を見つけたようでわくわくした。まずは、小さな憩いの公園に入って、緑の中から眺めた。



そして、改めて、もっと近づいてみた。


 目の前に現れた新国立競技場は、巨大ながらも重圧感や圧迫感がなかった。何かを語りかけるようでもあった。
 隈研吾氏が新国立競技場について語る記事を幾つか読んだ。新国立競技場には、松や杉の木材が使用されると言う。「松」で、思い出されるのが、オリンピックのエンブレムが「市松文様」。そして、2020年の東京復興五輪の式典演出の統括を務める野村萬斎氏らが舞う能舞台には、いつも背景に「松」が描かれている。そして私が忘れられないのが、岩手県陸前高田の希望の「一本松」。2011年の巨大津波の中でも、1本のみがピーンと空高く生き残っていた。今年6月末、岩手県庁を訪ねた時、職員の方の名刺に「一本松」の写真が載っていて、7年経っても心にジーンと浸みた。



新国立競技場では、47都道府県の杉の木を使うと聞いた。[3]各地から集めるのは大変だろうが、何て素敵なんだろうと思った。新国立競技場を、北海道から沖縄までの、みんなの拠り所にする、全国でおもてなしをして世界の人々をお迎えする、そして多様な地域が個性を持ちながら新国立競技場で一体化、和(輪)を成す、そんなコンセプトが浮かび上がって来る。47都道府県というと、皇居の周りをマラソンしたりお散歩したりするとわかるが、47都道府県の花が地面に描かれ、それが皇居をぐるっと取り囲んでいる。また、国会議事堂公園にも、確か47都道府県の木が植えられている。皇居と国会議事堂と新国立競技場が、47都道府県で結ばれる。東京に全国がある、全国が東京に集まる、だから東京オリンピックは、日本全国のオリンピック。
 隈研吾著『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』の最後は、「たくさん、たくさん、木を使うのである。」と締めくくられている。たくさんの木材を思う時、私は子供と共に参加した森林体験を思い出した。山に入り、ヘルメットに軍手姿で、木こりのように木を伐採した経験だ。その時のお話で印象に残っているのが、「魚は一日漁に出れば釣れる、田畑は半年から一年で実がなる、でも木が使えるようになるには何十年もかかる。」ということ。農林水産業の中でも、林業が特に難しいのは、自分がやった成果が生きているうちに見られるかさえわからないこと。日本では林業が衰退しつつあると聞くが、それでも全国では、植樹祭が毎年開催され、両陛下がご臨席される。今年の植樹祭は福島県で開催された。被災地のことを常に気にかけていらっしゃる両陛下の御心は特別である。
 もう一つ、伐採をしていて気づいたこと。伐採というのは、たくさん育ちすぎた木を幾つか切って、木をまぶし、より良く日が当たるようにすることである。木を切ってしまうことをもったいないとは思わず、木を切ることで、より良く木を育てるのだ。このやり方は、日本の様々な文化とも共通すると思った。生け花をしていると、空間を大事にするために余分な葉や花を取ってしまう。そうすることで、花はより引き立つ。かつて千利休が、庭先のよく咲いた朝顔を一輪を残して全部取ってしまってお客様を迎えたことは有名な話である。日本画でも書でも空間、白紙の部分を大切にする。お能でも、能面の表情や静かなしぐさは、全てを表現したり言い切ったりせずに、見ている人の想像に任せると言う。西洋のフラワー・アレンジメントはたくさんの花を飾って豪華にし、西洋画は、白いキャンパスを埋め尽くす。木の空間は、光だけではない、風も通す。水も通す。木を伐りすぎてしまうと、水は流れ洪水等の被害を及ぼすが、適度の木は、雨水を地面に浸透させる。
 今年は、関西の地震、西日本の豪雨、台風21号、そして北海道地震と、夏の酷暑も挟んで、日本が災害大国であることを、まざまざと感じさせられた。温暖化の気候変動によることもあるが、日本の歴史を見ると、何百年も前から、同様なことが、噴火も含めて、起こっている。そんな自然の驚異にさらされながらも、日本人は自然と共存して生きてきた。その中から生まれた知恵が「和を以て尊し」ではないかと最近思った。厳しい自然の中では、人間は助け合って行かなければ生き残れない。争っていては生き延びられない。
 平和の祭典としてのオリンピック。古代ギリシアでは国家(ポリス)同士の争いが絶えなかった。その争いも、オリンピック開催中は、停戦した。

 木の伐採は光と風を通すと上記したが、人間は光と空気の他、水がなければ生きていけない。そして、川のそばに古代文明が発達したように、人類の文明は水と共に発展してきた。新国立競技場の建設にあたり、隈研吾氏は、環境の大切さを説き、1964年に埋もれてしまった渋谷川を再現することに触れていた。今日10月10日にそれを確認することはできなかったが、水を取り戻すことは、生活環境に潤いを与えることでもある。そして、水の尊さを誰よりもお分かりなのが、水をテーマにご研究をなされている皇太子殿下(注:2019年5月1日より、今上陛下)であられよう。その皇太子殿下が、2年後には、新天皇陛下として、ここで東京オリンピックの開会宣言をされるのである。

 新国立競技場を眺めた後、明治維新から150周年、聖徳記念絵画館に赴くため、道を折れた。そこで、目に入ったのが、何と日の丸の旗。オリンピックで日本人がメダリストになった時に、会場に高く掲
げられるように、大空に高くはためいていた。何だか、オリンピックで日本を応援してくれているような気分になり、嬉しさがこみ上げた。



そんなワクワクしていた私に、向うから自転車に乗ったおじさんが声をかけてきた。元気一杯に、「私は小さい時から、ずっとこの近くに住んでいて、よくここで遊びました。その噴水の水が冬になると凍って、割って遊んだ。東京空襲の後、疎開から戻ってきたら、そこいらに焼夷弾が突き刺さっていた。オリンピック毎に引っ越しさせられた。前回と今回の2回。」と話して下さった。お幾つか尋ねると、85歳だとおっしゃる。とにかくお元気で、今は、小学校等で、大繩を回して子供達に外で遊ぶことを教えたり、戦争体験を語ったりしているそうだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――― 

これには後日談がある。この85歳のお元気な自転車おじさん。若い人顔負けの速さで自転車を走らす。国立競技場の建設ごとに引っ越しを余儀なくされたとおっしゃるが、今でも神宮外苑に住んでいらっしゃると言うことで、2回ほどインタビューをさせて頂いた。

お名前は甚野公平さん。男ばかりの9人兄弟で、家族で野球チームを組んで、神宮外苑で草野球をしていたそうだ。1964年の東京五輪までは、大きな一軒家に住んでいたが、国立競技場の建設で、狭いアパートに住むことになった。それでも東京オリンピックの開催を喜んで、記念切符や記念コインを求めたり、競技チケットも購入して観戦したりしたそうだ。競技場の外側で文具等を売る雑貨屋さんを経営して、小さな商店街のコミュニティーもあり、町会でお祭り等を楽しんだと言う。それが、今回の新国立競技場の建設により、再度引っ越しを余儀なくされ、商店のコミュニティ―も解散してしまったそうだ。新たな住居となった都営住宅では、住民も変わってしまい、かつてのようなお祭りが開催できないと言う。いつもにこにことお話し下さり、立ち退きのことも怒ったり恨んだりすることのない方だったが、かつてのお祭りのお写真を見せながら、少し寂しそうな表情で昔を懐かしんでいらした。それでも、今は小学校や高齢者センターのボランティアで忙しい、とお話し下さった。幼稚園や小学校では、大繩跳びで皆を遊ばせたり、餅つきをしたりするそうだ。どちらも、チーム・ワークと、リズム、掛け声が大切だ。陣野さんは、とにかく子供達に外で元気よく遊んでほしい、と言っていらした。教育の中に、スポーツや伝統文化を取り入れる発想は、近代オリンピックの創設者、クベルタン男爵の考え方とも共通するところがある。



隈研吾氏が、自ら設計した建設中の新国立競技場を上空から見て、語った言葉がある。[4]

「「私は神楽坂で生活している」「俺は池袋で暮らしている」というように、それぞれの街のアイデンティティーを大事にして生きていけるようになればいい。

そういう意味で、コミュニティーの役割がすごく重要だ。」



そのコミュニティーを一番大切にしていらしたのが甚野さんではないかと思った。神宮の庭で、暑い日も寒い日も、毎日遊んで、働いて、人々とかかわる(コミュニケートする)のが好きで、ずっと何十年も生きていらした。きっと甚野さんなら、「私は神宮の杜で楽しんで生きている。」とおっしゃるだろうな。ふっと、帽子をかぶった自転車おじさんの笑顔が目に浮かんだ。







[1] 隈研吾『自然な建築』(2008年、岩波書店)、隈研吾『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか 建築家隈研吾の覚悟』(2016年、日経BP社)、養老孟司・隈研吾『日本人はどう住まうべきか?』(2012年、新潮社)等
[2] 2018年10月12日金曜日 鈴木くにこのブログ「未来を築く」より
「10月10日体育の日(オリンピック散歩道)」
[3] 2019年6月1日に東京大学安田講堂で開催された隈研吾教授の最終連続講義第3回「コンクリートから木へ~工業化社会の後にくるもの」においても、隈研吾氏が、47都道府県の杉の木を使用した新国立競技場の建設について話した。同席の登壇者の一人、深尾精一氏が、沖縄県のみは杉が生えないので松になったことを披露した。
[4] 「東京ミライ 五輪がこの街を造った、建築家 隈研吾×新国立競技場」(2019年2月14日付、読売新聞、21面)