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2019年11月30日土曜日

新国立競技場の完成にあたり 

 来年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて建設が進められていた新国立競技場が、本日、令和元年(2019年)11月30日、正式に完成した。
 私(鈴木くにこ)は、2018年6月23日のオリンピック・デーに上梓した『オリンピックと日本人の心』(内外出版)が英語翻訳されるにあたり、多少中身を変更し、新たに「東京オリンピックと新国立競技場」について書いた。以下、その部分を引用する。既に、建築家、隈研吾さんには、本文章をお読み頂いた。
(English Version is here:https://kunikosuzuki.blogspot.com/2019/11/the-new-national-stadium-for-tokyo-2020.html)


東京オリンピックと新国立競技場



「日本文化とオリンピック」について書いておいて、国立競技場の建設に触れないわけには行かない。

今や世界的建築家として名を馳せている隈研吾氏が述べていること、彼の著作等を幾つも読んだ。[1]

オリンピックを象徴するスタジアム、特にその中心となる国立競技場そのものが、その時代やその国を映す文化そのものだということを多少なりとも理解した。隈研吾氏自身、一九六四年の東京オリンピックに丹下健三氏が設計した「国立代々木競技場」を見て、建築家を目指したと述べている。建築自体が時に文化芸術であるのだろう。

東京オリンピック二〇二〇に向けての新国立競技場の建設に関しては、紆余曲折があった。最初の「新国立競技場基本構想国際デザイン」コンペでは、イラク出身の女性建築家、ザッハ・ハディット女史の提案が選定された。女性であり今も混沌としたイラク出身ということで、個人的には興味を持ったが、費用や環境面等、再検討され、結局、新たなコンペを行ない、大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所の共同企業体が請け負うことになった。この三者のそれぞれの思いについては、隈研吾著『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか 建築家・隈研吾の覚悟』(二〇一六年、日経BP社)をお読み頂きたい。

一九六四年の国立競技場が、日本で初めてのオリンピック開催への意気込みと高度経済成長期の経済発展を象徴する建築物であったのに対し、二〇二〇年に向けた新国立競技場は、収容人数と規模は拡大したが、別のコンセプトで日本を表現している。

上述した著書等にも述べられているが、「木」をたくさん使用した建築、そして「外苑の杜」の環境を生かした物にするということだ。

古くから、日本は「木」の文化、西洋は「石」の文化と言われてきた。日本では、風通しの良い木造建築に人が住み、宝物を貯蔵する。吉田兼好の『徒然草』第55段にも、「家の作りやうは夏をむねとすべし」と、風の入る涼しい家を想定する。正倉院にしても、高床式の木の御蔵であり、何百年も何千年も前の「絹の道」で伝えられた遠方から届いた宝物を大事に保管する所である。一方、西洋では、煉瓦作りの強固な壁で、風よりも「暖」を重視する。石の壁が敵から身を守る防波堤でもある。

新国立競技場は、「神宮外苑」の中に位置する。「神宮」とは、ここで言う明治神宮の他、鎌倉の鶴岡八幡宮、京都の平安神宮等、大きな神社の呼称で、いわば聖域である。その「外苑」とは、神宮につながる外側周辺のお庭という意味だ。「神宮の杜(もり)」は単なる神宮の「森」ではなく、神宿る森(杜)なのである。「代々木の杜(もり)」という場合、それは、代々木の緑(森林)の中にあるお社(やしろ)である明治神宮を指す。

 もともと日本の神社仏閣は、山の中など森林の生い茂った自然の中に位置した。今では都会の真ん中のコンクリートのビルに隣接して鳥居や祠を見つけることもあるが、もともとは山奥や人里離れた所、または町中でも緑豊かな所である。それは、日本人が自然との共存を大切にし、自然の中に神宿ると思っていたからに他ならない。もちろん、西洋でも、例えば、フィンランド等では、森林に妖精が住んでいると考えるそうで、それがクリスマスや独自の文化を生み出している。しかし、日本語では、例えば、「山を征服する(conquer)」とは言わない。山も路傍の石も虫けらも、皆人間と平等にあると考え、「自然との調和」、「共存」を重視する。

 そんな明治神宮外苑に新国立競技場という大きな建造物が建つ。それに、たくさんの木が使われる。木、森林は、水がなければ育たない。だから、神社の入り口には、湧き水で手を清め口を漱ぐ場所がある。今回、新国立競技場の建設にあたり、旧国立競技場の建設の際に上をふさいでしまった渋谷川が復活すると言う。水の再来が楽しみである。

 

 二〇一八年1010日、私は、初の東京五輪開催の記念日である秋晴れに、建設中の新国立競技場を見に行った。その時のことを書いたブログを以下に引用する。[2]



 54年前の今日、19641010日、アジア初のオリンピックが東京で昭和天皇の開会宣言とともに始まった。本年(2018年)623日、オリンピック・デーに、初めての単著『オリンピックと日本人の心』を上梓した私、鈴木くにこは、その原点に触れようと、当時と同じような秋空に恵まれた1010日の午後、神宮外苑を目指した。

 スタート地点は、南青山の隈研吾建築都市設計事務所。2020年の東京オリンピックに向けて来年(2019年)11月に完成予定の新国立競技場を設計した所。その息吹を感じたかった。大通りから一歩入った静かな所に、看板を掲げることもなくシンプルに存在していた。一階が竹の小道のある日本料理屋だが、2階以上は明るく開放的なオフィス。
 偶然のことだが、ここを拠点にしたのには、もう一つ意味があった。私が『オリンピックと日本人の心』を執筆する際に、「花は足で生けるのよ。」と教えてくれた友人が、すぐ近くで長年、茶の湯のお稽古をしていたからだ。そのお茶の先生は、つい先日、9月末に最期まで現役で94歳で他界された。友人のお茶会に招かれた時に、2回ほどお目にかかったことがあるが、とてもお優しい先生だった。

 伝統的日本文化と新しい建築、1964年と2020年、そんな二つの時間と空間を融合させながら、1010日の青山のオリンピック散歩は始まった。
 青山通りから神宮外苑に向かう並木道に曲がる所で、聖徳記念絵画館を真正面に見て、私は、自然と頭を下げていた。何となく会釈してから、並木道を歩き始めた。東京都のシンボルマークである銀杏の葉が地面に落ち始めていて、きれいな可愛い模様を作っていた。まるで、2年後の東京オリンピックの道しるべを示すように。

秋の午後の光に照らされて、緑のアーチの並木道は、昔見た印象派のピサロの絵を思い出させた。1894年にフランスから始まった近代オリンピック、そして今年は日仏国交160周年、その間のジャポニズムや日仏の交流の歴史、そんな中でのフランス絵画の印象派の光が、今日21世紀の秋の東京の穏やかな風景と重なるのが面白い。 


 54年前の原点を求めて、自然の光と空気に触れながら、歩みを進めた。車の音が気になりながらも、ふっと公園の緑の向うに、白っぽい建造物が見えてきた。あれが新国立競技場だろうか。何だか隠れた宝物を見つけたようでわくわくした。まずは、小さな憩いの公園に入って、緑の中から眺めた。



そして、改めて、もっと近づいてみた。


 目の前に現れた新国立競技場は、巨大ながらも重圧感や圧迫感がなかった。何かを語りかけるようでもあった。
 隈研吾氏が新国立競技場について語る記事を幾つか読んだ。新国立競技場には、松や杉の木材が使用されると言う。「松」で、思い出されるのが、オリンピックのエンブレムが「市松文様」。そして、2020年の東京復興五輪の式典演出の統括を務める野村萬斎氏らが舞う能舞台には、いつも背景に「松」が描かれている。そして私が忘れられないのが、岩手県陸前高田の希望の「一本松」。2011年の巨大津波の中でも、1本のみがピーンと空高く生き残っていた。今年6月末、岩手県庁を訪ねた時、職員の方の名刺に「一本松」の写真が載っていて、7年経っても心にジーンと浸みた。



新国立競技場では、47都道府県の杉の木を使うと聞いた。[3]各地から集めるのは大変だろうが、何て素敵なんだろうと思った。新国立競技場を、北海道から沖縄までの、みんなの拠り所にする、全国でおもてなしをして世界の人々をお迎えする、そして多様な地域が個性を持ちながら新国立競技場で一体化、和(輪)を成す、そんなコンセプトが浮かび上がって来る。47都道府県というと、皇居の周りをマラソンしたりお散歩したりするとわかるが、47都道府県の花が地面に描かれ、それが皇居をぐるっと取り囲んでいる。また、国会議事堂公園にも、確か47都道府県の木が植えられている。皇居と国会議事堂と新国立競技場が、47都道府県で結ばれる。東京に全国がある、全国が東京に集まる、だから東京オリンピックは、日本全国のオリンピック。
 隈研吾著『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』の最後は、「たくさん、たくさん、木を使うのである。」と締めくくられている。たくさんの木材を思う時、私は子供と共に参加した森林体験を思い出した。山に入り、ヘルメットに軍手姿で、木こりのように木を伐採した経験だ。その時のお話で印象に残っているのが、「魚は一日漁に出れば釣れる、田畑は半年から一年で実がなる、でも木が使えるようになるには何十年もかかる。」ということ。農林水産業の中でも、林業が特に難しいのは、自分がやった成果が生きているうちに見られるかさえわからないこと。日本では林業が衰退しつつあると聞くが、それでも全国では、植樹祭が毎年開催され、両陛下がご臨席される。今年の植樹祭は福島県で開催された。被災地のことを常に気にかけていらっしゃる両陛下の御心は特別である。
 もう一つ、伐採をしていて気づいたこと。伐採というのは、たくさん育ちすぎた木を幾つか切って、木をまぶし、より良く日が当たるようにすることである。木を切ってしまうことをもったいないとは思わず、木を切ることで、より良く木を育てるのだ。このやり方は、日本の様々な文化とも共通すると思った。生け花をしていると、空間を大事にするために余分な葉や花を取ってしまう。そうすることで、花はより引き立つ。かつて千利休が、庭先のよく咲いた朝顔を一輪を残して全部取ってしまってお客様を迎えたことは有名な話である。日本画でも書でも空間、白紙の部分を大切にする。お能でも、能面の表情や静かなしぐさは、全てを表現したり言い切ったりせずに、見ている人の想像に任せると言う。西洋のフラワー・アレンジメントはたくさんの花を飾って豪華にし、西洋画は、白いキャンパスを埋め尽くす。木の空間は、光だけではない、風も通す。水も通す。木を伐りすぎてしまうと、水は流れ洪水等の被害を及ぼすが、適度の木は、雨水を地面に浸透させる。
 今年は、関西の地震、西日本の豪雨、台風21号、そして北海道地震と、夏の酷暑も挟んで、日本が災害大国であることを、まざまざと感じさせられた。温暖化の気候変動によることもあるが、日本の歴史を見ると、何百年も前から、同様なことが、噴火も含めて、起こっている。そんな自然の驚異にさらされながらも、日本人は自然と共存して生きてきた。その中から生まれた知恵が「和を以て尊し」ではないかと最近思った。厳しい自然の中では、人間は助け合って行かなければ生き残れない。争っていては生き延びられない。
 平和の祭典としてのオリンピック。古代ギリシアでは国家(ポリス)同士の争いが絶えなかった。その争いも、オリンピック開催中は、停戦した。

 木の伐採は光と風を通すと上記したが、人間は光と空気の他、水がなければ生きていけない。そして、川のそばに古代文明が発達したように、人類の文明は水と共に発展してきた。新国立競技場の建設にあたり、隈研吾氏は、環境の大切さを説き、1964年に埋もれてしまった渋谷川を再現することに触れていた。今日1010日にそれを確認することはできなかったが、水を取り戻すことは、生活環境に潤いを与えることでもある。そして、水の尊さを誰よりもお分かりなのが、水をテーマにご研究をなされている皇太子殿下(注:201951日より、今上陛下)であられよう。その皇太子殿下が、2年後には、新天皇陛下として、ここで東京オリンピックの開会宣言をされるのである。

 新国立競技場を眺めた後、明治維新から150周年、聖徳記念絵画館に赴くため、道を折れた。そこで、目に入ったのが、何と日の丸の旗。オリンピックで日本人がメダリストになった時に、会場に高く掲
げられるように、大空に高くはためいていた。何だか、オリンピックで日本を応援してくれているような気分になり、嬉しさがこみ上げた。



そんなワクワクしていた私に、向うから自転車に乗ったおじさんが声をかけてきた。元気一杯に、「私は小さい時から、ずっとこの近くに住んでいて、よくここで遊びました。その噴水の水が冬になると凍って、割って遊んだ。東京空襲の後、疎開から戻ってきたら、そこいらに焼夷弾が突き刺さっていた。オリンピック毎に引っ越しさせられた。前回と今回の2回。」と話して下さった。お幾つか尋ねると、85歳だとおっしゃる。とにかくお元気で、今は、小学校等で、大繩を回して子供達に外で遊ぶことを教えたり、戦争体験を語ったりしているそうだ。
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これには後日談がある。この85歳のお元気な自転車おじさん。若い人顔負けの速さで自転車を走らす。国立競技場の建設ごとに引っ越しを余儀なくされたとおっしゃるが、今でも神宮外苑に住んでいらっしゃると言うことで、2回ほどインタビューをさせて頂いた。

お名前は甚野公平さん。男ばかりの9人兄弟で、家族で野球チームを組んで、神宮外苑で草野球をしていたそうだ。1964年の東京五輪までは、大きな一軒家に住んでいたが、国立競技場の建設で、狭いアパートに住むことになった。それでも東京オリンピックの開催を喜んで、記念切符や記念コインを求めたり、競技チケットも購入して観戦したりしたそうだ。競技場の外側で文具等を売る雑貨屋さんを経営して、小さな商店街のコミュニティーもあり、町会でお祭り等を楽しんだと言う。それが、今回の新国立競技場の建設により、再度引っ越しを余儀なくされ、商店のコミュニティ―も解散してしまったそうだ。新たな住居となった都営住宅では、住民も変わってしまい、かつてのようなお祭りが開催できないと言う。いつもにこにことお話し下さり、立ち退きのことも怒ったり恨んだりすることのない方だったが、かつてのお祭りのお写真を見せながら、少し寂しそうな表情で昔を懐かしんでいらした。それでも、今は小学校や高齢者センターのボランティアで忙しい、とお話し下さった。幼稚園や小学校では、大繩跳びで皆を遊ばせたり、餅つきをしたりするそうだ。どちらも、チーム・ワークと、リズム、掛け声が大切だ。陣野さんは、とにかく子供達に外で元気よく遊んでほしい、と言っていらした。教育の中に、スポーツや伝統文化を取り入れる発想は、近代オリンピックの創設者、クベルタン男爵の考え方とも共通するところがある。



隈研吾氏が、自ら設計した建設中の新国立競技場を上空から見て、語った言葉がある。[4]

「「私は神楽坂で生活している」「俺は池袋で暮らしている」というように、それぞれの街のアイデンティティーを大事にして生きていけるようになればいい。

そういう意味で、コミュニティーの役割がすごく重要だ。」



そのコミュニティーを一番大切にしていらしたのが甚野さんではないかと思った。神宮の庭で、暑い日も寒い日も、毎日遊んで、働いて、人々とかかわる(コミュニケートする)のが好きで、ずっと何十年も生きていらした。きっと甚野さんなら、「私は神宮の杜で楽しんで生きている。」とおっしゃるだろうな。ふっと、帽子をかぶった自転車おじさんの笑顔が目に浮かんだ。







[1] 隈研吾『自然な建築』(2008年、岩波書店)、隈研吾『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか 建築家隈研吾の覚悟』(2016年、日経BP社)、養老孟司・隈研吾『日本人はどう住まうべきか?』(2012年、新潮社)等
[2] 20181012日金曜日 鈴木くにこのブログ「未来を築く」より
10月10日体育の日(オリンピック散歩
[3] 201961日に東京大学安田講堂で開催された隈研吾教授の最終連続講義第3回「コンクリートから木へ~工業化社会の後にくるもの」においても、隈研吾氏が、47都道府県の杉の木を使用した新国立競技場の建設について話した。同席の登壇者の一人、深尾精一氏が、沖縄県のみは杉が生えないので松になったことを披露した。
[4] 「東京ミライ 五輪がこの街を造った、建築家 隈研吾×新国立競技場」(2019214日付、読売新聞、21面)

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