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2020年9月20日日曜日

オリンピックの灯を絶やしてはならない


 オリンピックの火を絶やしてはならない。何故なら、オリンピックは、困難な時にも、人類の希望の光、平和の火として、人々に支えられながら、灯し続けてきた歴史があるからである。

 コロナ禍で、東京オリンピック・パラリンピックが一年延期された。中止でなく延期とされたのは、そこに開催の希望を見出してのことである。しかし、新型コロナウィルス(COVID-19)の世界的収束の兆候はまだ見えない。そんな中、年末までに、IOC(国際オリンピック委員会)が何らかの正式決定をするとの報道がなされている。

 なかには、オリンピックは中止した方がいいとの声も聞かれる。しかし、私は、困難な時だからこそ、創意工夫をして、オリンピックを開催すべきだと考えている。もちろん、アスリートや大会関係者、観客等の安全対策を怠ってはいけない。

 開催すべき理由は、幾つかある。
 
 まず、世界中のアスリート達が、4年に一度のオリンピック・パラリンピックに向けて、自らの人生をかけて挑んできた。生まれて初めて参加する者もいれば、生涯最初で最後の参加になる者もいるだろう。彼らの人生をかけた努力は並大抵なものではない。その努力の発揮の機会を、容易に奪ってしまって良いのだろうか。

「賢者は歴史から学ぶ」」。ちょうど100年前、1918年~1920年、第一次世界大戦の末期から戦後処理の時代、世界を襲ったのが「スペイン風邪」と呼ばれたウィルスだった。その死者は、世界大戦の死者をはるかに超え、世界で4500万人。当時の人口を考えると、各地で甚大な被害があったことが想像できる。そんな中でも、1920年、ベルギーのアントワープでオリンピックは開催された。4月から9月まで、規模を縮小して行われたようだ。初めて選手宣誓がされ、近代オリンピックの祖であるクベルタン男爵が考案したとされる五輪マークの旗が採用された。

戦後処理や財政難に悩まされたオリンピックは、他にもあった。第二次世界大戦で、1940年の東京と1944年のロンドン大会が連続で中止となり、その後が危ぶまrたが、オリンピックは、1948年にロンドンで再開された。ロンドンでも食糧が配給時代、選手たちは、文字通り「手弁当」で参加したそうだ。日本は、敗戦国であり、米軍の占領下に置かれていた時代、オリンピックのへの参加は認められなかったが、神宮プールでは、同時刻に選手たちが水泳競技を行い、金メダル以上の世界記録を達成したという。

そもそも、近代オリンピックの始まり1896年の第1回アテネ大会から、財政難で開催できるか不安が合った中、ギリシア人の大富豪がオリンピック予算の半分程度を提供し、皆がその善意に誘われるように寄付をして開催にこぎつけたと言う。

こういうオリンピックの困難な歴史を見てくると、現在のコロナ禍で、簡単にオリンピックの火を消してはいけない気がしてきた。既に、各国は、WithコロナとかPostコロナと言って、感染拡大を防止する様々な処置を講じながら、経済活動、教育活動等、日常生活を送っている。

それなら、オリンピック・パラリンピックも同様に、Withコロナ、Postコロナを前提に考えてみたらどうだろうか。コロナ禍でしかできない東京オリンピックが新たな歴史を生むかもしれない。
 例えば、水泳競技など個人・チームの記録を競うものは、世界幾つかのプールを同時中継し競うという方法もある。既に、日本では、長野オリンピックの開会式で、小澤征爾指揮のもと、世界5大陸を中継し、「歓喜の歌」を演奏した経験がある。
 柔道など、対面で争う競技については、PCR検査を徹底させ、陰性の限られたメンバーのみ期間限定で場所を定めて練習及び試合を行う。感染者が出たら即刻一時停止し、少数なら消毒して再開、クラスターなら中断など決めておく。
 観客等については、マスク、アルコール消毒、人と人との距離を開ける等を徹底させる。当初より観衆が少なくなってしまうのは止むを得ないだろう。その分、オンライン等で対応する。

 こうして考えてみると、この我々のコロナ体験は無駄ではなかったのかもしれない。「2020+1」の「+1」には大きい意味がある。2020年7月23日に池江璃花子選手が国立競技場で行ったメッセージが目に浮かぶ。

 歴史は人が作る。オリンピックも例外ではない。



2020年8月15日土曜日

終戦記念日75周年



 本日、2020年(令和2年)8月15日、第二次世界大戦の終戦記念日75周年を迎えた。靖國神社には、新型コロナウィルス(武漢肺炎、COVID-19)や猛暑にもかかわらず、例年以上に大勢の方が、朝早くから列をなし、お参りしていた。足を引きづりながらも靖國神社に向かう女性、腰を曲げながら長い列に並ぶお年寄り、短パン・Tシャツ姿の若者、子供を抱きかかえたお父さん等々、それそれが様々な思いで、終戦記念日に九段の杜に参拝に訪れる。靖國神社は昨年(2019年)、明治2年から創建150周年を迎えた。すなわち、そこには、日本の歴史が、75年の倍、150年以上が刻まれているのである。近現代の日本を支えてきた多くの御霊が存在するのである。

 15年前、戦後60周年に、筆者が書いた論考がある。今でも変わらないことがほとんどである。以下に、そのまま掲載する、一読頂けたら幸いである。

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歴史の学びから平和を築く一若き日の経験から一
2005年8月
鈴木くにこ
はじめに
本日2005年8月15日、日本は、第二次世界大戦の終戦から、60周年を迎えた。例年通り、日本武道館では天皇、皇后両陛下ご臨席のもと、全国戦没者追悼式が挙行された。小泉総理は、千鳥が測の戦没者墓苑に献花を行ない、大勢の人々(20万人以上)が靖国神社に参拝した。この日テレビでは、高校生にインタビューする様子が放映された。高校生たちは、「戦争はよくないことなので、もうしないでほしい」とか「今、平和でよかった。これが続けばいい」という発言をしていた。とても素直な感情だと思う。そして、筆者は、自分の高校生時代に、ある教師から言われた言葉集を思い出していた。「平和を願うだけでなく、平和を築く人になりなさい」と。フランスの高校への留学が決まった筆者への、酸(はなむけ)の言葉だった。現在、教科書を含む歴史間題が国内外で大きく取り上げられている。60年目の終戦記念日も、このことを考えざるを得ない心境になった。そんな時、思い出すのが、筆者がフランスで受けた歴史教育である。当時のことを振り返りながら、今日的識論に一考察を与えるのが、本稿の趣旨である。

フランスの教育より学ぶ
ロータリー青少年交換計画の留学生として、高校3年生の時、一人、渡仏した。今から20年以上前のことである。現地の高校3年に入り、授業の進め方にショックを受けた。日本では、主に、1冊の教科書をもとに、先生が板書をしながら、授業を進める。一方、フランスでは、指定の教科書というのはなく、先生は授業の間、ずっと話をし、その内容を、生徒たちがノートに書き留める。後は、各自が図書館や本屋に行って、様々な書籍、資料に触れ、調べものをしながら、考えを深めて行くのである。そして、試験は、すべて論文形式で行なわれる。教科書を丸暗記すればよいというものはない。間われるのは、論理的思考とフランス語の文章表現である。では具体的に、歴史の授業では、どのようなことを学ぶのか。高校3年次では、第一次世界大戦、第二次世界大戦が主要なテーマとなっていた。両大戦において、フランスはドイツと戦闘を直接交わした国である。その国で、例えば、ヒットラーをどの様に表現するのか。日本では、ヒットラーはナチス党を率いた独裁者として、悪人扱いの勧善懲悪の教育が普通であった。それに対して、フランスでは、ヒットラーという人物、ドイツという国家を、より客観的、冷静に捉えようとする教育がなされていた。一例を挙げれば、ヒットラーが台頭した原因、経緯を記述する論文で、第一次大戦後の戦後処理でドイツ経済が疲弊していたこと、ヒットラーが民主的選挙で選ばれたこと、ヒットラーの生い立ち等を学ぶのである。そこでは、ヒットラーは悪人で非難すべきという教育よりも、様々な条件・環境が整えば、どこにでも存在しうる人物として表現される。歴史の応用で現在をも学んでいるのである。「独仏の和解」というと、両国首脳が手を結びかつての戦場に立った写真を思い出す(後日注:ミッテラン仏大統領とコール独首相のヴェルランでの写真)。こうした表の演出を支えるのが、実は、何十年も続いてきた青少年交流や教育なのではないか。フランスの歴史戦育を回顧しながら、そんなことを思った。

歴史の学び
「賢者は歴史に学ぶ」と言われるが、では、なぜ歴史を学ぶのか。過去の過ちを繰り返さないために歴史を学ぶのだとすれば、過去の過ちの事実を非難するだけでよいのだろうか。誰々が悪いと非難し責任追及をすれば済むのであれば、事は比較的簡単であり、誰にでも可能な教育である。しかし、例えば、社会の様々な事件にもみるように、重要なことは、罪の責任追及ばかりでなく、罪の原因迫求である。「なぜ、そうなってしまったのか」という、「なぜ」の部分を解明しなければ、同様の過ちは繰り返される。そして、その「なぜ」を考え、「なぜ」を探求することこそ、歴史教育に求められているものではないだろうか。そこで指摘したいのが、政策形成過程を研究する重要性である。政府の決定の結果ばかりを迫うのではなく、そこに至る過程や、世論など、政府を取り巻く様々な現象を丹念に見て行く作業である。この点、筆者が出合った良書を紹介しておきたい。第二次世界大戦の日本の敗戦を決定的にし、日本の戦後史にも大きな影響を及ぼしたのが対米開戦であるが、これを題材にした猪瀬直樹著 『昭和16年夏の敗戦』及び 『黒船の世紀』である。前者が、内閣の総力戦研究所の「対米開戦すれば日本は敗戦する」との結論を主題にしたのに対し、後者は、日露戦争後から日米両国で多数出版された「日米未来戦記」が大きなテーマになっている。二つのベクトルに対し、結局、政府は、「日米未来戦記」の方に傾いてしまったのである。

歴史を見る眼
アーノルド・トインピーは、「歴史とはそれをみる立場や目的により初めて歴史が生まれる」と述べた。歴史の共通認識が可能かについて考える時、この言葉はドイツ大統領が戦後50周年の式典で述べたことを想起させる。ドイツの終戦記念日を敗戦とみるか解放とみるか、加害者と被害者、どこでどんな経験をしたか、個々人によって歴史の経験は異なるというものである。従って、事実は一つだとしても、その感じ方、経験に基づく歴史認識というのは、千差万別ということである。歴史を一面的にみるのでなく、複眼的、多層的に見ていく努力が要請される。「一つの尺度(正義)で歴史は書き得るものではない」ということ(平間洋一著 『日英同盟』 PHP新書)にも通じる。もう一つ、歴史を見る眼で重要なことは、「現在の価値観で当時の歴史をみてはならない」ということである(前掲平間著)。例えば、民主主義の価値や植民地主義に関しても、現在の価値観で見ていたら、当時の歴史は見えてこない。2003年度の一年間、筆者は、某私立大学で政治外交史の教鞭をとった。上記の点を、学生にも伝えながら、筆者自身もなるべく、当時の国際環境及び日本国内の政策決定過程等を説明した。試験で「日本が参戦した戦争の具体例を挙げ、その背景、日本の対応、経緯、結果、その後の国際環境について記し、最後に所感を述べよ。」との質問に、ある中国人留学生が、日清戦争を選択し、所感として、次にように記した(原文のまま)。「今こそ、日本と中国は、世界平和維持のために、国際政治に対して、一緒に努カすることが望まれる。歴史の戦争はもう過去だった。私たちは平和の道を一歩一歩歩んでいくことは、非常な努力を要することであると考える。そうしたら政治外交史の授業を受けると良かったと思う。私は最近世界史、外交史などいろいろな事を近くつけるようになると感じる。私は中国の留学生にとって、この授業中の時代の背景、過去の人間が置かれた立場と自分の立場を比較較研究し、その成果を、自分の生き方を決定するための材料にすべきであると考える。」最近の日中間の歴史間題を考える時、この留学生の真拳な気持ちが心を打つ。こういう学生が増えて行けば、アジアにおける歴史教育も、欧州のように、平和を築く基礎になり得るのではないか。そんな、わずかな希望を持った。

おわりに
8月のテレビでは、「戦争はやだ」「平和がいい」と、当たり前の言葉ばかりが目立った。「平和を願う」ことは誰にでも出来る。では、「平和を築く」メッセージや行動はどの程度映し出されたか。なぜ平和は崩れたのか、どうしたら平和を築けるのかという難題にどれだけ真剣に向き合っているのか。自問自答しながら、今年も暑い終戦記念日を過ごした。「歴史の学びから平和を築く」そんな日がアジアにも来ることを切に願っている。欧州共同体に至る困難な道程を想像しながら、いつの日か真の平和のための東アジア共同体が生まれることを夢見ながら。
 2005年8月15日(60回目の終戦記念日に)

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 ここまで読んで頂き、東アジアの国際情勢が、15年前より悪化していることが理解できよう。75年間、日本が平和を築く努力を続けてきても、近隣諸国では、核兵器が増え、武力の威嚇が多くなり、かえって人々が怯えて生活しなければならないことが増えてしまった。
 どうしてか。その原因をきちんと考え、次の行動に生かすことこそ、今後のアジアの平和のために求められていることではないか。


2020年8月9日日曜日

「祈りの長崎」を訪れて

 
11年前(2009年、平成21年)の今日8月9日、私は、「原爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列していた。
 あれから11年、今日(2020年、令和2年8月9日)も、長崎では、あの日から75年目を迎え、人々は、核兵器のない、平和な世界を祈り続ける。
 8月6日投稿の本ブログで、広島には何回も行ったことがあると書いたが、長崎は11年前が初めてだった。現地で手にしたパンフレットに、「怒りの広島、祈りの長崎」と書いてあったのが印象に残っている。以下、当時の報告書に掲載された拙文を、ほぼそのまま引用する。
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三人の長崎人(「永」先人)との出会い
                         2009年8月11日 鈴木くにこ

 2009年8月8日(土)、私は、初めて長崎の地に降り立った。海と山とに囲まれた穏やかな風景が私を包むように迎えてくれた。今回の訪問の目的は、「平和への祈り」。東京都千代田区平和使節団の一員として、8月9日に行われる「被爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列した他、原爆落下中心地、原爆資料館、平和公園、浦上天主堂、城山小学校、山里小学校等の被爆跡地を訪ね、千代田区民の方々が平和への思いを込めて折った千羽鶴を献架し、祈りを捧げた。一つ一つの場所で、多くのことを感じ取った。今回の訪問が私の人生観を変えたと言っても、過言ではない。それぞれ詳細に述べたいが、(今報告書では一人二頁と決まっているので、)ここでは、三人の長崎人との出会いに関して、記すこととする。偶然、お三方とも「永」という漢字が苗字につく。永久平和を願う長崎人(「永」先人)としてご紹介する。

Ⅰ故永井隆先生との出会い
 永井隆先生の生き様は、私の心に大きく響いた。永井隆記念館を訪問する前から、長崎市内の様々な場所に、永井先生の足跡を見ることが出来た。山里小学校内の「あの子らの碑」、そして城山小学校前の「永井坂」。今でも長崎の人々に尊敬されている先生のお姿が感じ取られた。永井隆先生は、長崎医科大学の放射線専門医として白血病を擢った上、長崎への原爆投下の日に被爆し、重傷を負った。にもかかわらず教護隊を組織して負傷者の治療に当たった。病に倒れられてから亡くなるまでの6年間に、床に伏しながら、 『長崎の鐘』を始め15冊以上の書籍を書きあげた。印税は将来の子供たちのために寄付し、自らは二畳の質素な「如己堂」で生涯を閉じる。永井隆先生は、従軍医師として二度、中国にも赴いている。医療に国境はないと、国籍に関係なく治療をしたと言う。永井隆先生の存在は、長崎の方々のみならず、日本人一人一人が誇りに思い、お手本にすべきものであり、また、世界の人々にも訴える普運の尊さがある。なかなか真似の出来ない生き方であるが、そのほんの一部でも見習たいと感じた。永井隆先生の言葉より。「どん底に大地あり」。被操の焼け野原にミミズを見つけた時の生命への喜び。常に希望を失わずに実行する力、そして明るさ。今の私達日本人に必要なものではないだろうか。

Ⅱ永野悦子さんとの出会い
 永野悦子さんは、被爆者の一人として、自らの御経験、そしてご自身の胸の内を、私達に語って下さった。当時16歳で、学徒動員で長崎にいたが、鹿児島に疎開していた13歳の妹と9歳の弟を無理やり長崎に連れ戻してしまい、その二人が被爆してせくなったことに、80歳の今でも自責の念に駆られていらっしゃった。「心の傷」は体の傷よりも深く辛いことを感じた。被爆直後の弟さんの身体は皮がs剥げ、抱くことさえ出来なかったこと、被爆から3日後に亡くなった弟の遺体に、自分達家族で火を付けて焼かなければならなかった辛さ、毛が抜け体中に斑点ができ苦しみながら1ヶ月後に亡くなって行った妹、50年間のお母様との心の葛藤と「ありがとう、ごめんね。」の和解、等々、淡々と語って下さる永野悦子さんを前に、私は涙をこらえることが出来なかった。今年で被嫌から64年を迎えるが、永野さんは、最初の50年間、経験した「生き一地獄」のことは忘れたく、言葉にすることさえ出来なかったと言う。が、亡くなった家族が生きていた証を残したい、被爆体験を語らなければいけないという思いから、話を始められた。そう思うと、私達は、「沈黙の声」にもっと耳を傾けなければならないのではないか、と感じた。

Ⅲ岩永信一さんとの出会い
 岩永信一さんは、単なるタクシー運転手さんではない。岩永信一さんは、長崎に誇りをもち、長崎の歴史・文化をこよなく愛し、それを私達に、心を込めて説明して下さった。被爆二世として、被爆されたお母様の苦悩も、静かにお話し下さった。被爆をされた後遺症で、坂を上るのも疲れ(長崎は驚くほど急坂の多い町である)、すぐに横になることが多かったそうだ。今でこそ、「被爆認定」されることが悪いこととはされないが、当時は、被爆者であることで、結婚できなかったり、就職できなかったりした。それ故、被爆のことは一言も口にせずに亡くなった方も多かったそうである。ここでも、「沈黙の声」が聞こえる。浦上天主堂の秘話も教えて下さった。当時、「東洋一」とまで言われた浦上天主堂の裁爆直後の写真は、数年前まで公開されなかったそうだ。世界遺産となっている広島の原爆ドームの数倍の規模での破壊。当時の長崎市長は、市民とともに、この被爆跡を残そうとしたが、米国の圧力で難しかったらしい。一部のみ、今日も残っている。

 長崎の郷土料理に、「卓祇(しっぽく)料理」というのがある。岩永信一さんによれば、地元の人は、これを「和華蘭(わからん)料理」と呼ぶらしい。すなわち和洋中折衷、様々な文化を取り入れた料理ということだ。そして、長崎の人々は、朱色の円卓を囲み、身分上下の差なく皆平等に料理をつまむ。長崎人が大切にした、異文化との共存共栄の道が、この食文化にも表れている気がした。そして、これは世界の平和にとって大事なことだ。岩永さんの心温まる応対、お気遣いにも感謝している。冷たいお手ふきと飲み物を用意して、暑い長崎市をご案内下さった。長崎人のホスピタリティ・を感じた。

 歴史は人が作る。穏やかな長崎人との出会いを通じて、多くのことを感じ、学んだ。「平和の祈り」の旅は、終わらない。千代田区平和使節団の役割は、世界で戦争が絶えない限り、続く・。.。(合掌)
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 当時、長崎の永井隆記念館の館長をされていた、永井博士のご子息の永井誠一(まこと)さんから、1枚のしおりを頂戴した。そこには、「被爆地長崎に足跡を残したあなた、これからのその足で世界を歩いてください。」と書かれていた。
 世界を歩く時、世界中に広めたい数式がある。「6+9=15」。数は世界共通である。足し算は小学校1年生で習う。広島、長崎、終戦記念日、日本の8月は忘れられない。これも「ながいまこと」さんがしおりの裏に書いたこと。
 今日も、11年前と変わらず、長崎には暑い日差しが照らしていた。

 

2020年8月6日木曜日

広島、原爆の日に


 その日から75年が経った。その日を体験した人はもはや少数派である。が、世界の人々が知っている「広島」(Hiroshima)。人類初の原子力爆弾が投下され、大勢の一般市民が、未知の苦しみに堪えながら、命を落としたり、悲しい人生を送たりすることになった。

 広島には何度も訪れたことがある。記憶に残るのは、1980年代、学生の時、まだ平和記念資料館が建て替えられる前の旧館で(昭和の趣がありシンプルそのままで、より当時の雰囲気を醸し出していた)、展示の最後に見た階段に焼け映った人影が印象的で、いつまでも脳裏に残っている。その人影が、何かをいつまでも訴えているようだった。
 その日は、2人のイタリア人の学生の友人を案内したのだが、広島平和記念公園に出ると、すれ違った子供たちは、「あ、アメリカ人だ。」等と言って元気に通りすぎる。友人のイタリア人は、アメリカ人に間違えられることには慣れていたが、それを聞いて私に質問してきた。「なぜ、日本人は、アメリカ人に原爆を落とされても、アメリカ人に怒ったり恨んだり責めたりしないの?」と。咄嗟の友人からの質問に、私は何か答えなければいけないと思い、「うーん、日本には「水に流す」という言葉があるし、戦後の冷戦でアメリカには復興支援等で助けてもらったし……。」等、一応の説明はしたが、いまだに私自身、実はよくわかっていない。

 それから、1997年か1998年、OL時代、(株)博報堂内に設置されていた岡崎研究所(岡崎久彦所長、小川彰事務局長)の「日米韓、朝鮮半島プロジェクト」で、韓国の元外務大臣、元海軍士官、大学教授等(後の大臣や大使)とともに、広島・宮島・呉・江田島を訪問した。広島平和記念公園を一緒に散歩しながら、朝鮮半島出身者の追悼記念碑が、公園の一歩外にあるのに気づかされた。その夜、池田行彦元外相(広島選挙区)らと懇談し、数年後、同記念碑は公園内に移設される。

 21世紀に入り、まだ保育園に通う子供たちを連れて、広島を旅行した。平和記念公園の折り鶴、平和の鐘等に触れあいながら、どれくらい分かるか知らないが平和記念資料館も訪問した。特に何を言うこともなくじっと展示を見て、公園で遊んで帰った4歳前後の子供たち。帰京後、車のチャイルド・シートの上から運転席の祖父に向かって興奮したように話す。「知ってる、大パパ(おじいさんのことをこう呼んでいた)、原爆(げんばく)ってこわいんだよ。だって、レンガのお家まで壊してしまう(恐らく「3匹のこぶた」のイメージ)んだよ。それに、三輪車も車輪が取れてぐちゃぐちゃ。」。「お弁当箱も焦げていた。」と横からも一人の保育園児も印象を話す。子供たちの目線で原爆の怖さを感じていたことを気づかされた。

 30年の時を経て、前出のイタリア人の友人が、2015年、家族を連れて再来日した。自身は旅の疲れと脱水症状で点滴まで必要とする身体だったが、子供たち家族には、広島平和記念資料館を一瞬でも見に行くように奨めた。「百聞は一見に如かず。」駆け足ながら、資料館の展示は彼らの記憶に深く残った。

 昨年2019年、G20サミットが大阪で開催された際、EUのドナルド・トゥスク大統領は、来日したら必ず訪問したかったと広島と長崎を多忙なスケジュールに入れた。その時、世界の首脳たちが広島と長崎を訪問し、人類が手遅れにならないように軍縮すべきだと述べていいる(以下、参照)。
トゥスク大統領はポーランド出身である。日本とポーランドには、「負の世界遺産」として人類史上忘れてはならない記憶遺産として「アウシュビッツ強制収容所」と「広島原爆ドーム」が登録されている。

 梅雨が明けると、けたたましいほどに元気な蝉の声であるが、今日の蝉は、青空に響きながらも、どことなく寂しげに聞こえる。そんな日が15日まで続く。

2020年7月24日金曜日

海の日:「海洋国日本の繁栄」



 今日、2020年7月23日は海の日の祝日でした。
 2003年の「ハッピー・マンデー制度」から7月の第三月曜日が海の日の祝日になっていますが、今年は、新型コロナウィルスの感染拡大がなければ、明日7月24日が東京五輪の開会式でスポーツの日の休日になり、その前日に海の祝日が来ました。
 でも本来、海の日は7月20日なのです。それには意味があります。
 ちょうど10年前の2010年、私は、あるところで、7月20日がなぜ海の日なのかの理由を書いていました。




そして、今から16年前、2004年7月、私は、「政策空間」という当時存在していたネット上の政策提言サイトに、「海洋国家日本の戦略」と題する論考を投稿しました。そこでは、56年前の1964年(初めての東京オリンピックの年でもある)に高坂正尭先生がお書きになった「海洋国家日本の構想」を引用している。今でも示唆に富む内容である。



現在、日本周辺の海洋は、穏やかではない。海の安全も、漁業資源の保護や鉱物資源の開発も、さらには海洋環境も、さまざまは方面から脅かされている。
 そんな海から数々の恩恵を受けて生きながらえてきた日本人。これからは、美しく平和な海を保つために不断の努力をしなければならない、そんなことを考える海の日でした。
 7月20日、日本文化チャンネル桜の「フロント・ジャパン桜」の番組がありました。
「海の日」のこと、尖閣諸島や沖ノ鳥島にも触れました。どうぞ、ご覧下さいませ。















2020年7月1日水曜日

香港よ、永遠に―――。

 本日2020年6月30日は、香港基本法で2047年まで保証されるはずだった「一国二制度」が終焉した日と、世界は記憶するだろう。
 香港で民主化を推進してきた人々は、涙を呑んで、民主派政党を解散させ、そこからの脱退を公に宣言して、明日からの新たな社会で、生活の生き残りをかける。「生きている限り、希望がある。」「絶望の先にも、きっと希望が。」、淡々と語る彼らの姿勢と、今までの行動に敬意を表したい。そして、彼らの生きる今後の世界が、より自由で民主主義的かつ思いやりのある社会になるよう、私達1人1人が努力すべきだろう。
 私が初めて香港の地を踏んだのは、丁度40年前の1980年の12月。ガール・スカウト(香港では、「女童軍」と記していた)の国際行事、International Gatheringに参加するためだった。テーマは、東西文化交流、East-West Encounter。当時の香港は、英国の統治下で、至る所で異国情緒を感じることができた。島にある大きなキャンプ場で、世界各地から集まったガールスカウト、ガール・ガイドの友人達と寝泊りし、仲良くなった。香港の友人が、きれいな英語で、寝る前に「清しこの夜」Silent Night, Holy Niightを歌ってくれたのを覚えている。朝起きた時の挨拶、「ゾウ(早)サン」は、発音が「象さん」と似ていて、すぐ覚えた。それから、有難うを示す「多謝(トウチェイ)」も好きでよく使った広東語である。北京語の「謝謝(シェイシェイ)」よりも、もっと感謝がたくさん多くある意味合いで気に入った。キャンプ場で食べた朝ごはんの御粥の味と雰囲気も忘れられない。チキンの骨を取り出しながら、鶏だしのきいたお粥を外で頂いた。12月だが温暖だった。香港人の友人とたくさんと過ごし、とにかく楽しかったが、キャンプ場で、ふっと英国統治を感じることがあった。閉会式が開催された広い運動場にヘリコプターで降り立ったのが、西洋人のシルバー・グレーの紳士。行事のスポンサーや主催者等「お偉さん」も、生粋の香港人ではない方が殆どだった。
 2度目の香港訪問は、1995年。第二次世界大戦後50周年の年。そして、翌1996年夏にも、香港を訪問した。偶然、終戦記念日のパレードにあたった。一緒に見学していた中国専門家の友人が、「来年からは、人民解放軍がパレードするようになるのかなあ。やな感じ。」とつぶやいていたのを思い出す。
 1997年7月の香港返還。ユニオン・ジャックが下された。そこから「一国二制度」が始まった。サッチャー英首相と鄧小平主席が交渉した香港基本法。本当は、英国は香港全土を返還する義務はなく一部は維持できたが、当時の英国は景気が良いとは言えず「小さい政府」で香港の維持費も節約したかったのだろう。長い交渉の後、サッチャー首相は、鄧小平主席のことを「タフ・ネゴシエーター」と呼び、ふらついたと言う。香港の民主制度と経済上の特別な地位は、50年間、すなわち2047年まで続くはずだった。国際社会は、中国も改革開放で資本主義を導入すれば民主化されると幻想を抱いた。結果は、逆だった。中国は外国資本や技術を導入し、資本主義の市場を相手に、著しい経済発展をし、それをもとに軍拡も推進し、共産党の力を増強した。1989年6月4日の天安門事件に見るように、中国内でも若者を中心に民主化運動はあったが、その都度、弾圧されてきた。1989年の天安門の時、弾圧から逃れ西側に亡命しようとする中国人たちを助け、その出口となったのは香港だった。
 2011年12月、香港返還から約15年たった香港を再訪した。空港に到着した途端、すぐに中国化したことがわかった。近代化した大きな建物で出迎えてくれたのは、大陸の舞踊団の舞。入管の人の態度も何となく冷たかった。j街中もすっかり変わってしまった。異国情緒というよりも開発、開発。とにかく建物が乱立し、ブティック等が入った近代建築が所狭しと並んでいる。一方、意外と英語が通じづらくなっていたり、夜になるとバス停前で大陸から来た人が新聞を売ったり、公害や通りのごみ等が目立ったりした。香港では、何年か先まで、病院の出産予約がいっぱいだと聞いた。大陸の人達が、何とか「香港ステータス」を得て、いざという場合に備えたいのだろう。
 そして2014年の香港の雨傘運動。民主化、「一国二制度」崩壊の危機を、香港の人達は、6年前に分かっていた。それでも中国の共産党は強硬姿勢を変えるどころか強めた。昨年2019年、香港人の為の香港人による司法制度が瓦解されることへの反発から、平和的デモは始まった。香港人の団結は長く続いた。しかし、共産党中央政府は、たがを緩めず、国際的には不評の「香港国家安全法」を通し、とうとう「一国二制度」は終焉した。
 香港の人々は、民主派政党を解散し、表向き共産党制度を受け入れる選択をした。生き残るための知恵、苦渋の選択だっただろう。国際社会は、民主的香港を助けることは出来なかった。
 今から約150年前、1873年に書かれたアルフォンス・ドーデの「最後の授業」が思い出される。フランスのアルザス地方がドイツに割譲されることになった時、授業の最後、先生は黒板に、フランス語で、Vive la France(フランス万歳)と大きく書いた。
 この23年間の香港の「一国二制度」の歴史を、私達は忘れない。
 香港よ、永遠に―――。
 多謝

 今日6月30日は、日本では、「夏越の大祓い」にあたる。今年前半の天下万民の罪や厄を御祓いして、今年2020年の後半を健康、清らかに過ごせるようにする。新型コロナウィルスの感染も止まないが、まずはお祓いして、明日から、新たな気持ちで生きよう。

  
 

2020年6月23日火曜日

6月23日は何の日? ~「沖縄慰霊の日」、日米同盟条約発効、「オリンピック・デー」~

 2020年6月23日、本日は、1945年の沖縄戦が組織的に終結した「沖縄慰霊の日」75周年であった。毎年、この日は沖縄では休日となり、県民皆が平和を考え、祈る日となっている。
 丁度10年前、沖縄を訪問した直後、私は、次のようなことを記していた。

<沖縄は日米同盟の棘か光か>
 「沖縄問題は日米関係の棘である。」と言われることがある。何故か。それは、在沖縄米軍基地にまつわる事件・事故が大きな反米・反基地運動につながり、それが良好な日米同盟関係を揺るがすきっかけになることがあるからである。1995年の少女暴行事件しかり、2009年の民主党政権誕生後の普天間基地移設問題しかりである。
<棘の背景:二つの歴史>
 沖縄と米国との関係には、本土とは異なる二つの歴史がある。一つは、太平洋戦争末期、沖縄本島で繰り広げられた米軍との沖縄戦である。数か月(1945年4月1日~6月23日)にわたる激戦は、沖縄県民に多くの犠牲をしいた(役20万人の戦没者のうち半数以上が沖縄県出身者)。想像を絶する戦いである。今でも、島のあちらこちらに、その跡があり、自然と手を合わせたくなる。
 もう一つ、本土と異なる歴史は、1952年に日本が米国(GHQ)の占領から独立した後も、沖縄は、米国の統治下に置かれたことである。それから沖縄が日本に復帰するには、1972年まで20年かかった。終戦後の1945年から1972年までの27年間に、沖縄の米軍基地が固定化してきたことは否めない。
<沖縄県民と米軍との良好な関係>
 「沖縄は日米関係の棘」と言うと、まるで、沖縄が日米関係のマイナス要因になっているような印象を与える。しかし、沖縄は、逆に、「日米関係の光」として、プラス要因として考えることも出来るのではないか。筆者は、今回の沖縄訪問を終えて、そんなことを思った。
 2010年3月29日、筆者は、那覇で、春の選抜高校野球で、沖縄の甲南高校がベスト8に進出する瞬間をテレビで視た。そして、「もしかしたら優勝するかも」と思っていたら、それが現実となった。現在、米国の大リーグでは、イチロー、松井、松坂等、日本の野球選手が活躍しているが、実は、沖縄の高校が野球に強いのは、米具の存在と無関係ではない。嘉手納基地近くの嘉手納高校も有名である。そして、キャンプ・シュワブの初代中隊長のテイラー大尉が少年野球チームを結成したこともあった。甲南高校に関しては、米軍がヘリコプターを提供して、練習試合のある石垣島(那覇から約400㎞)まで送迎したこともあるそうだ。
 野球のみならず、沖縄駐留の米軍が沖縄県民等のために尽くした例は少なくない。今回、沖縄を訪問して、幾つかの美談を聞いたので紹介する。一つは、臓器移植の話である。2000年11月、キャンプ・キンザー(海兵隊基地)のパケット司令官が、脳梗塞で倒れ、脳死と判定された。パケット大佐は、かねてから、「万一の時は、沖縄を愛した証として、臓器沖縄県民および日本人に提供したい」と話していたことから、遺族は、大佐の臓器提供を申し出た。その結果、大佐の腎臓と角膜は、福岡、熊本及び沖縄の患者さんに提供された(恵龍之介「尖閣、沖縄が危ない!」『諸君』2006年5月号参照)。)この大佐の遺志を継ぐ米軍関係者は多く、彼らの中には、自分の子供が亡くなった時に、日本で、その臓器を提供したものもいたと聞いた。心に響く話である。
 もう一つ、米軍兵士が沖縄県民の命を助けた話も聞いた。ショッピング・センターの前で、心臓麻痺で倒れた沖縄県民を、通りがかりの海兵隊の将校が蘇生をして命を救ったという話である。このような例は一件ではない。交通事故で瀕死の重傷を負った若者を、救命隊員が来るまでの間、米軍兵士が蘇生をして、一生を取りとめたこともある。この若者の父は、反基地運動家であったが、この出来事以来、反基地運動を止めたそうである。この他にも在日米海兵隊は、海岸の清掃等のボランティア活動、地域との交流事業(年1500回以上)を行ない、地元の「良き隣人」になろうとしている。また、アメリカ婦人福祉協会は、ギフトショップの売り上げを、10年間で200万ドル(約2億円)、沖縄の慈善事業に寄付している。
 このように、沖縄県民と米軍との関係は、決して負の側面(棘)ばかりではなく、プラスの側面(光)もある。
(以上2010年4月記)

 また、沖縄訪問で、何人かの方々にインタビューをさせて頂いたメモの中に、次のような記述を見つけた。
 「沖縄戦の慰霊の日には、米軍基地内でも慰霊祭が挙行される。その際には、米軍の犠牲者のみならず、沖縄そして日本人の犠牲者も追悼する。牧師の祈りの他に、必ず、日本国歌「君が代」が吹奏される。1968年、ある沖縄県民が父に連れられ参列した時も、米陸軍音楽隊が最初に「君が代」を演奏したのを記憶する。それは、沖縄県民及び日本軍が立派に戦ったことへの崇敬の念である。」

 この日本人の戦いぶりへの「崇敬の念」は、筆者が、2014年12月、パラオ共和国の激戦地ペリュリュー島を訪問した時にも感じた。圧倒的に優位だった敵の米軍に対して、一生懸命、家族や国を守るために戦った日本人の生き様は、相手への伝わったのだろう。

  本日、沖縄慰霊の日には、糸満市摩文仁の平和祈念公園で式典が挙行される。戦没者の氏名が刻まれた「平和の礎」の前方に広がる海は青く美しいが、何故かとても切なくも感じられる。祈りの手を合わさずにはいられない。

 今日6月23日は、偶然にも、1960年1月に岸信介総理がアイゼンハワー大統領と合意した「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障に関する条約」が発効した日でもある。本年は60周年にあたる。一般に「日米安保約」と呼ばれるが、正式な条約名にもあるように、条文の記載でも、この条約は、安全保障のみならず、日米両国民の福祉の向上や経済協力も謳っている。

 「昨日の敵は今日の友」。75年間、日米間の絆が育まれてきたからこそ、そして60年間、日米同盟が安定に発展してきたからこそ、日本はある程度平和と繁栄を享受できたのだと思う。英霊に、先人に、そして皆々様に感謝する。

 6月23日は、「平和の祭典」と呼ばれる古代のオリンピックを、近代復活させることが1894年にパリのソルボンヌで決まった日でもある。これについては、拙著『オリンピックと日本人の心』(内外出版)又は "The Olympics and the Japanese Spirit"(22世紀アート、英語版)をお読み頂きたい。


  

2020年4月30日木曜日

昭和天皇を偲ぶ

 4月29日は、「昭和の日」の祝日だった。
 昭和天皇を御偲びて、令和2年(2020年)の4月を考えてみたい。
 
 昭和天皇は、20世紀の始まり1901年(明治34年)にお生まれになった。すなわち、日本国民は、4月29日の祝日を、昭和天皇のお誕生日としてお祝いするのである。
 昭和天皇は明治のお生まれであり、大正時代、さらに昭和64年(1989年)1月7日、満87歳でご崩御されるまで、88年間の人生の中で、第一次世界大戦(1914年~1918年)も、第二次世界大戦(1939年~1945年)も、その間に起きた1918年~1920年のスペイン・インフルエンザの流行も、1923年の関東大震災も、全てご経験されている。
 1945年の終戦の時は、御年44歳。人生の丁度、真ん中、折り返し地点でいらした。
たったお一人で、大国アメリカ合衆国(連合国の代表)のマッカーサー元帥(連合国軍最高司令官)に直談判され、ご自身の首はどうなっても良いから、日本国民の命を守ってほしい、飢えさせないでほしいとおっしゃられた。お蔭で、私達日本国民は、今、このように生きていられる。
 終戦の詔勅では、「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」と、敗戦後の日本が苦難の道を歩むことを示唆された。
 そして、7年間の連合国軍(実質は米国)の占領を終え、日本が主権回復をして、再び独立国となったのが、1952年の4月28日。昭和天皇が51歳のお誕生日をお迎えになる前日だった。その年、昭和天皇は、戦後初めて靖國神社をご親拝されていらっしゃる。モーニング姿でシルクハットを他の参拝者に向かって高く掲げられた。

 2011年の東日本大震災、そして今年は新型コロナウィルスで、毎日の生活も、命も、今後の世界もどうなるか分からない不安定な時代。
 そんな中、「昭和の日」に、昭和天皇をお偲びしつつ、ご自身のお立場や命よりも、私達日本国民の命を一番に考えて、終戦後の日本社会を考えて下さった歴史に、思いを馳せた。
 実は、この日、久しぶりに書道具を持ち出した。今年の初め、お父様が特攻隊の生き残りだという友人と話をしていて、思い浮かんだ和歌を詠んだ。

 若人ら 尊き命を捧げしは 家族と国への 限りなき愛

 特攻隊員たちは、人を殺すためではなく、家族や国家の未来を守るために旅立った。
そんな気持ちは、世界でも共通に存在する。

 新型コロナウィルスとの戦いでも、医療現場では、患者さんを助けようとして、自らが感染し命を落とした方々もいる。そこには献身的行動と人類への愛がある。

 「昭和の日」、手を合わせずにはいられない。合掌

 薫風の光の中で、たくさんの感謝を込めて

 令和2年(2020年)4月29日 鈴木くにこ

 





2020年4月25日土曜日

出雲大社から世界への祈り

 ひと月前の2020年3月24日、お彼岸が明けた翌日、出雲大社をお参りした。
松江城から宍道湖のほとりを通って、出雲大社に到着すると、真っ先に巨大な日の丸が目に入った。


  元自衛官の方でさえ、こんな大きな日の丸は、自衛隊でも持っていないのではないか、というほどの見事なもの。この日は、ご覧の通りの快晴で、雲一つない。地元の人達も、「八雲立つ出雲」というように、この辺りは常に雲ががっていて、こういう日は珍しいという。
鳥居から拝殿へ。
大きな注連縄(しめなわ)の拝殿で参拝。
普通、神社のお参りの仕方は、「2礼2拍手1礼」だが、
出雲大社では、「2礼4拍手1礼」。
注連縄の大きさにも誘われ、大きく4拍すると、氣も心も大きくなる。
拝殿の先が本殿。神様により近い所で、改めて手を合わせる。

 出雲大社の御祭神は、大国主大神。
大国主大神と天照大御神との関係は、出雲大社の以下のサイトで読むことが出来る。
一部を引用しておく(下線は筆者)。
http://www.izumooyashiro.or.jp/about/ookami

「大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。」


「大神様は国づくりの最中、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さいました。この慈愛ある御心への感謝の顕れが、一つ一つの御神名の由来となっているのです。
今では広く“えんむすび”の神として人々に慕われていらっしゃいますが、この“縁”は男女の縁だけではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための貴い結びつきです。そして、日本の悠久なる歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守られ、目に見えないご縁を結んで下さっているのが大国主大神様なのです。」 

伊勢神宮(三重県伊勢市、御祭神は天照大御神)と出雲大社は、陽と陰の関係とも言われる。太平洋と日本海という点でもそうである。そして、北海道から沖縄県の西端の与那国島までのほぼ真ん中に位置する。

 上記の引用で驚くべき記述に気付く。私達の古代からの国造りでは、既に、農業のみならず、医療まで考えられていたこと。「古事記」の「因幡の白兎」のお話でも、怪我して苦しんでいた兎(うさぎ)さんに、治療方法を親切に教えてあげて助けてあげたのが大国主大神様であった。
(http://www.izumooyashiro.or.jp/about/inaba を参照。)
 新型コロナウィルスで、日本も世界も苦しんでいる中での参拝。
大国主大神様は、だまされて苦しんでいるものを医療の知恵で助けることを行動でお示しになっていたこと、「生きとし生けるもの」の共存共栄を唱え、見えない「ご縁」という力で見えない世界を司って下さっている。
 とても有難いご存在。日本の国造りの神様は、この悩み、不安な私達の気持ち、心を癒して下さる、と感じた。
 見えない敵には、見えない力が一番効果的かも、そんなことにも気づかされた。
  
 10月のことを神無月と私達は呼ぶが、旧暦の10月、全国の八百萬神様が出雲大社に集まる。出雲では、その月を「神在月」と呼ぶ。その神々のお宿となるのが、下記写真の建物「十九社」。どんな風に御在室されるのか、想像してみた。




本殿を裏から見た所、うさぎさんも手を合わせる

注連縄の大きいことでよくマスメディアで取り上げられるのが、神楽殿。コンサート等で使用されることもある。左下は真下から撮影したもの。どうやって製作したのか、何人がかりで縄をしめたのだろうか。重さ約1トンと聞いたことがあるが、しっかりつるすのも大変だろう。国造りは、それだけ偉業ということだろうか。 




夜、お夕飯を遅めにして、夕日を拝みに行った。午後6時半頃が日の入り。
 神在月に八百萬神様がご到着するという、日本海に面した稲佐の浜に足を速めた。
 出雲の地から、世界の安泰を祈った。特に、新型コロナウィルスの収束を祈願した。



ただただ祈る。静寂。波の音。風の流れ。
往復、「神迎の道」を通った。神在月に、稲佐の浜に着いた八百萬神様が出雲大社まで向かわれる際にお通りになる道らしい。神を迎える道。日本海に向かって道の入り口に、灯篭のようなものが2柱、門のように立っていた。
 


夕食時、「神様と同じものを召し上がって頂きます。」と出されたのが、下記の御膳。海の幸、山の幸、豪華というより質素である。
 昨年の大嘗祭の報道で見たものと似ている印象。
 感謝して頂いた。出雲にいると、どこでも、「神様」「神様」と言われる。
 「八雲立つ」出雲。雲に隠れていつも見守っていて下さるのかも。w

こんな偶然があって良いのだろうか。いつもあまり見ることのないテレビ。
 この夜、スイッチを付けたら、NHKで、出雲出身の竹内まりやが昨年の紅白で歌った「いのちの歌」の特別番組がやっていた。
 今、この時、この場所で、涙が出た。忘れられない。
♬本当に大事なものは、隠れて見えない♪
♪この命に、ありがとう♬
もう一つ、不思議な偶然が起きた。このブログの3月20日付で、私は、「東京オリンピックは、中止でなく、延期されるべきだ。」と書いた。日本側とIOcで延期が正式に決まったとのニュースがこの3月24日に流れ、出雲で知った。
 私が多くの人の気持ちを記した『オリンピックと日本人の心』(内外出版)は、生命(いのち)で始まり、感謝でおわる本である。「いのちの歌」が主題歌となった出雲を舞台にした連続テレビドラマ「だんだん」は、出雲方言で「ありがとう」の意味と聞いた。何か見えないご縁を感じた。

「オリンピックと日本人の心」は、本年、一部内容を変えて、‛The Olympics and the Japanese Spirits’(The 22 Century Art)として英語で出版された。
 そこで新たに追加したのが、「音楽とオリンピック」についてだが、その中で、私は、ヴァイオリニスト吉田美里さんについて触れた。
 今日、このブログを書きながら、出雲大社のサイトに、吉田美里さんを見つけた。
http://www.izumooyashiro.or.jp/hounous/7308
 彼女は、昨年、(一般にコンサートは神楽殿で行われるが)より神様に近い拝殿で、日墺国交150周年を記念した奉納コンサートを行なった。

2019年10月22日火曜日

天皇陛下御即位 即位礼正殿の儀 

令和元年(2019年)10月22日(火、友引)、
天皇陛下が、御即位を国内外に宣明される即位式正殿の儀が宮中にて執り行われました。
心よりお祝い申し上げ、国民の皆様、世界の皆様とともに、寿ぎたく存じます。

即位礼正殿の儀の模様は、以下のサイト等でご覧いただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=nQrnwFhHXzs
千年以上続く儀式に、日本の伝統、歴史の重みを強く感じました。
美しさと、威厳、そして穏やかさにも包まれた荘厳で優雅なお式でした。

「鶴は千年、亀は萬年」と言いますが、鎌倉の鶴岡八幡宮の姉妹神社である亀岡八幡宮が、皇居の外堀に程近い市ヶ谷、防衛省自衛隊の並びにございます。
本日、お参りを致しました。階段の両脇には、
「天皇陛下御即位」と書かれた大きなお祝いののぼりが掲げられていました。
皇室の弥栄と、国家の末永い繁栄をお祈りし、ただただ感謝の念をお伝えしました。

ふと気付くと、境内には、世界5大陸の平和を願うモニュメント「花物語」がありました。
世界平和は、常日頃、
今上陛下が気にかけていらっしゃることでございます。
以下に、宮内庁HPに掲載されました
今上陛下の御言葉を付しておきます(下線筆者)。

即位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば(令和元年10月22日)



さきに,日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに「即位礼正殿の儀」を行い,即位を内外に宣明いたします。
上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間,常に国民の幸せと世界の平和を願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その御み心を御自身のお姿でお示しになってきたことに,改めて深く思いを致し,ここに,国民の幸せと世界の平和を常に願い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。
国民の叡智えいちとたゆみない努力によって,我が国が一層の発展を遂げ,国際社会の友好と平和,人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。

2019年7月2日火曜日

平成は本当に平和な時代だったのか? .

   令和に入って、既に2か月が過ぎました。少し前の映像ですが、今後の日本の安全保障や憲法論議を考える際にも、参考になりますので、是非、ご覧下さい。
 一般の大手メディアで言われていた、「平成は(災害が多かったけれど)平和で良かった。」と言う歴史の見方を覆す解釈です。1時間すぎから1時間20分くらいまでに「平成は本当に平和な時代だったのか?」というテーマで語っています。
 その根拠は?
1 平成以上に長い期間、昭和の方が平和だった。
2 日本の世界的地位は下がった(GDPの伸び率)。
3 隣国では、GDPの伸び以上に、軍事費が伸びた(軍拡)。
4 北朝鮮がミサイル発射を増加させたのは平成時代。
5 北朝鮮が核実験を行って核開発したのは平成の時代。
6 「戦争」の定義の変化で、テロとの戦い、情報戦、技術戦、法律戦、「貿易戦争」、
心理戦、サイバー戦争、宇宙等、目に見えない「侵略」も含め、多様で複雑な「戦争」の形態。
=>人類の歴史を顧みると、「平和」と思っている時代は、単に「戦争の準備をしている時代」?
そう思うと、安心はしていられないし、平和のノスタルジーも要らない。
重要なのは、平和を維持するには、軍事も外交も含んだ様々な手段による不断の努力が必要だということ。


2019年5月6日月曜日

令和元年 端午の節句

令和元年5月5日 端午の節句

 令和元年の最初の節句が端午の節句となった。
 前日の一般参賀の
今上陛下のおことばの力強さと快い響き……。
 それがこの良き端午の節句と結びついているような気さえした。

 鎌倉時代から伝わるこの日本の行事が、今日そのまま引き継がれているのは、素晴らしことだと思う。端午の節句の起源は中国にあるが、柏餅を頂く習慣は、日本独自に発展したと言う。それも、武家社会で、柏の木は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから、子孫繁栄で縁起が良いということで始まったそうだ。いずれにしても美食の国、日本。「花より団子」か「花も団子も」か、食いしん坊の多い国。こし餡、粒あん、味噌、と色々と柏餅を楽しんで頂きたい。

BGMは、♪
やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる ♬

作詞:近藤宮子

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 都会では、マンションが立ち並び、こいのぼりを見る機会、飾る機会が少なくなってしまった。地方に行くと、大きな川の上や広い公園で、新緑にまぶしいように泳ぐ鯉たち。
 「こどもたち」と、こどもがたくさん賑やかにいる姿が元氣一杯だが、
今の日本は?
 子供の日に総務省が出した統計を見ると、何だか寂しくなる。
以下のサイトを参照してほしい。47都道府県のうち東京のみ「こども人口」が増えたが、それは東京の人口が増えたからにすぎず、こどもの割合は増えていない。こどもの割合は先進国でも最低? 鯉のぼりからそのうち「こどもたち」が少なくなってしまう?

https://www.stat.go.jp/data/jinsui/topics/topi1091.html#aI-1
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気分転換に、もう1つの「鯉のぼり」の歌を聴いてみよう。

♪ 甍(いらか)の波と 雲の波
重なる波の 中空(なかぞら)を
橘(たちばな)かおる 朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり
開ける広き 其の口に
舟をも呑(の)まん 様見えて
ゆたかに振(ふる)う 尾鰭(おひれ)には
物に動ぜぬ姿あり
百瀬(ももせ)の滝を 登りなば
忽(たちま)ち竜に なりぬべき
わが身に似よや 男子(おのこご)と
空に躍るや 鯉のぼり ♬
作詞:不詳/作曲:弘田龍太郎-----------
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 美しい日本の風景で始まる「甍の波」……。
 一番しか知らなかったが、最後は、鯉が竜に変身?
 実は、今時のCGっぽい、凄いお話。きっと、鯉のぼり、宇宙まで、月まで登って行くのだろうなあ……。楽しみである。少し元氣が出た。
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そして、もう1つ、食いしん坊には、ちまきが登場する歌を!
♬
柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ

きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織の 紐(ひも)のたけ
柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ

雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山 ♬
作詞:海野厚
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 これも一番しか歌ったことがなかった。この作詞者の海野厚さん、7人兄弟の長男で妹3人、弟3人いたそう。でも、結核で28歳で亡くなられている。
 今は人生100歳時代。高齢化時代は悪いことではないが、元氣でありたい。
鎌倉時代の武家社会から始まった端午の節句。最後は、花菖蒲(アヤメ科)と葉菖蒲(ショウブ科)をお見せします。葉菖蒲は薬草の効果があるので菖蒲湯に入ると丈夫になるというのはその通りのようだ。もう1つ、「尚武」(しょうぶ)とは、武を重んじるという意味で、武士が好んだそうだ。