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2020年8月9日日曜日

「祈りの長崎」を訪れて

 
11年前(2009年、平成21年)の今日8月9日、私は、「原爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列していた。
 あれから11年、今日(2020年、令和2年8月9日)も、長崎では、あの日から75年目を迎え、人々は、核兵器のない、平和な世界を祈り続ける。
 8月6日投稿の本ブログで、広島には何回も行ったことがあると書いたが、長崎は11年前が初めてだった。現地で手にしたパンフレットに、「怒りの広島、祈りの長崎」と書いてあったのが印象に残っている。以下、当時の報告書に掲載された拙文を、ほぼそのまま引用する。
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三人の長崎人(「永」先人)との出会い
                         2009年8月11日 鈴木くにこ

 2009年8月8日(土)、私は、初めて長崎の地に降り立った。海と山とに囲まれた穏やかな風景が私を包むように迎えてくれた。今回の訪問の目的は、「平和への祈り」。東京都千代田区平和使節団の一員として、8月9日に行われる「被爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列した他、原爆落下中心地、原爆資料館、平和公園、浦上天主堂、城山小学校、山里小学校等の被爆跡地を訪ね、千代田区民の方々が平和への思いを込めて折った千羽鶴を献架し、祈りを捧げた。一つ一つの場所で、多くのことを感じ取った。今回の訪問が私の人生観を変えたと言っても、過言ではない。それぞれ詳細に述べたいが、(今報告書では一人二頁と決まっているので、)ここでは、三人の長崎人との出会いに関して、記すこととする。偶然、お三方とも「永」という漢字が苗字につく。永久平和を願う長崎人(「永」先人)としてご紹介する。

Ⅰ故永井隆先生との出会い
 永井隆先生の生き様は、私の心に大きく響いた。永井隆記念館を訪問する前から、長崎市内の様々な場所に、永井先生の足跡を見ることが出来た。山里小学校内の「あの子らの碑」、そして城山小学校前の「永井坂」。今でも長崎の人々に尊敬されている先生のお姿が感じ取られた。永井隆先生は、長崎医科大学の放射線専門医として白血病を擢った上、長崎への原爆投下の日に被爆し、重傷を負った。にもかかわらず教護隊を組織して負傷者の治療に当たった。病に倒れられてから亡くなるまでの6年間に、床に伏しながら、 『長崎の鐘』を始め15冊以上の書籍を書きあげた。印税は将来の子供たちのために寄付し、自らは二畳の質素な「如己堂」で生涯を閉じる。永井隆先生は、従軍医師として二度、中国にも赴いている。医療に国境はないと、国籍に関係なく治療をしたと言う。永井隆先生の存在は、長崎の方々のみならず、日本人一人一人が誇りに思い、お手本にすべきものであり、また、世界の人々にも訴える普運の尊さがある。なかなか真似の出来ない生き方であるが、そのほんの一部でも見習たいと感じた。永井隆先生の言葉より。「どん底に大地あり」。被操の焼け野原にミミズを見つけた時の生命への喜び。常に希望を失わずに実行する力、そして明るさ。今の私達日本人に必要なものではないだろうか。

Ⅱ永野悦子さんとの出会い
 永野悦子さんは、被爆者の一人として、自らの御経験、そしてご自身の胸の内を、私達に語って下さった。当時16歳で、学徒動員で長崎にいたが、鹿児島に疎開していた13歳の妹と9歳の弟を無理やり長崎に連れ戻してしまい、その二人が被爆してせくなったことに、80歳の今でも自責の念に駆られていらっしゃった。「心の傷」は体の傷よりも深く辛いことを感じた。被爆直後の弟さんの身体は皮がs剥げ、抱くことさえ出来なかったこと、被爆から3日後に亡くなった弟の遺体に、自分達家族で火を付けて焼かなければならなかった辛さ、毛が抜け体中に斑点ができ苦しみながら1ヶ月後に亡くなって行った妹、50年間のお母様との心の葛藤と「ありがとう、ごめんね。」の和解、等々、淡々と語って下さる永野悦子さんを前に、私は涙をこらえることが出来なかった。今年で被嫌から64年を迎えるが、永野さんは、最初の50年間、経験した「生き一地獄」のことは忘れたく、言葉にすることさえ出来なかったと言う。が、亡くなった家族が生きていた証を残したい、被爆体験を語らなければいけないという思いから、話を始められた。そう思うと、私達は、「沈黙の声」にもっと耳を傾けなければならないのではないか、と感じた。

Ⅲ岩永信一さんとの出会い
 岩永信一さんは、単なるタクシー運転手さんではない。岩永信一さんは、長崎に誇りをもち、長崎の歴史・文化をこよなく愛し、それを私達に、心を込めて説明して下さった。被爆二世として、被爆されたお母様の苦悩も、静かにお話し下さった。被爆をされた後遺症で、坂を上るのも疲れ(長崎は驚くほど急坂の多い町である)、すぐに横になることが多かったそうだ。今でこそ、「被爆認定」されることが悪いこととはされないが、当時は、被爆者であることで、結婚できなかったり、就職できなかったりした。それ故、被爆のことは一言も口にせずに亡くなった方も多かったそうである。ここでも、「沈黙の声」が聞こえる。浦上天主堂の秘話も教えて下さった。当時、「東洋一」とまで言われた浦上天主堂の裁爆直後の写真は、数年前まで公開されなかったそうだ。世界遺産となっている広島の原爆ドームの数倍の規模での破壊。当時の長崎市長は、市民とともに、この被爆跡を残そうとしたが、米国の圧力で難しかったらしい。一部のみ、今日も残っている。

 長崎の郷土料理に、「卓祇(しっぽく)料理」というのがある。岩永信一さんによれば、地元の人は、これを「和華蘭(わからん)料理」と呼ぶらしい。すなわち和洋中折衷、様々な文化を取り入れた料理ということだ。そして、長崎の人々は、朱色の円卓を囲み、身分上下の差なく皆平等に料理をつまむ。長崎人が大切にした、異文化との共存共栄の道が、この食文化にも表れている気がした。そして、これは世界の平和にとって大事なことだ。岩永さんの心温まる応対、お気遣いにも感謝している。冷たいお手ふきと飲み物を用意して、暑い長崎市をご案内下さった。長崎人のホスピタリティ・を感じた。

 歴史は人が作る。穏やかな長崎人との出会いを通じて、多くのことを感じ、学んだ。「平和の祈り」の旅は、終わらない。千代田区平和使節団の役割は、世界で戦争が絶えない限り、続く・。.。(合掌)
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 当時、長崎の永井隆記念館の館長をされていた、永井博士のご子息の永井誠一(まこと)さんから、1枚のしおりを頂戴した。そこには、「被爆地長崎に足跡を残したあなた、これからのその足で世界を歩いてください。」と書かれていた。
 世界を歩く時、世界中に広めたい数式がある。「6+9=15」。数は世界共通である。足し算は小学校1年生で習う。広島、長崎、終戦記念日、日本の8月は忘れられない。これも「ながいまこと」さんがしおりの裏に書いたこと。
 今日も、11年前と変わらず、長崎には暑い日差しが照らしていた。

 

2020年8月6日木曜日

広島、原爆の日に


 その日から75年が経った。その日を体験した人はもはや少数派である。が、世界の人々が知っている「広島」(Hiroshima)。人類初の原子力爆弾が投下され、大勢の一般市民が、未知の苦しみに堪えながら、命を落としたり、悲しい人生を送たりすることになった。

 広島には何度も訪れたことがある。記憶に残るのは、1980年代、学生の時、まだ平和記念資料館が建て替えられる前の旧館で(昭和の趣がありシンプルそのままで、より当時の雰囲気を醸し出していた)、展示の最後に見た階段に焼け映った人影が印象的で、いつまでも脳裏に残っている。その人影が、何かをいつまでも訴えているようだった。
 その日は、2人のイタリア人の学生の友人を案内したのだが、広島平和記念公園に出ると、すれ違った子供たちは、「あ、アメリカ人だ。」等と言って元気に通りすぎる。友人のイタリア人は、アメリカ人に間違えられることには慣れていたが、それを聞いて私に質問してきた。「なぜ、日本人は、アメリカ人に原爆を落とされても、アメリカ人に怒ったり恨んだり責めたりしないの?」と。咄嗟の友人からの質問に、私は何か答えなければいけないと思い、「うーん、日本には「水に流す」という言葉があるし、戦後の冷戦でアメリカには復興支援等で助けてもらったし……。」等、一応の説明はしたが、いまだに私自身、実はよくわかっていない。

 それから、1997年か1998年、OL時代、(株)博報堂内に設置されていた岡崎研究所(岡崎久彦所長、小川彰事務局長)の「日米韓、朝鮮半島プロジェクト」で、韓国の元外務大臣、元海軍士官、大学教授等(後の大臣や大使)とともに、広島・宮島・呉・江田島を訪問した。広島平和記念公園を一緒に散歩しながら、朝鮮半島出身者の追悼記念碑が、公園の一歩外にあるのに気づかされた。その夜、池田行彦元外相(広島選挙区)らと懇談し、数年後、同記念碑は公園内に移設される。

 21世紀に入り、まだ保育園に通う子供たちを連れて、広島を旅行した。平和記念公園の折り鶴、平和の鐘等に触れあいながら、どれくらい分かるか知らないが平和記念資料館も訪問した。特に何を言うこともなくじっと展示を見て、公園で遊んで帰った4歳前後の子供たち。帰京後、車のチャイルド・シートの上から運転席の祖父に向かって興奮したように話す。「知ってる、大パパ(おじいさんのことをこう呼んでいた)、原爆(げんばく)ってこわいんだよ。だって、レンガのお家まで壊してしまう(恐らく「3匹のこぶた」のイメージ)んだよ。それに、三輪車も車輪が取れてぐちゃぐちゃ。」。「お弁当箱も焦げていた。」と横からも一人の保育園児も印象を話す。子供たちの目線で原爆の怖さを感じていたことを気づかされた。

 30年の時を経て、前出のイタリア人の友人が、2015年、家族を連れて再来日した。自身は旅の疲れと脱水症状で点滴まで必要とする身体だったが、子供たち家族には、広島平和記念資料館を一瞬でも見に行くように奨めた。「百聞は一見に如かず。」駆け足ながら、資料館の展示は彼らの記憶に深く残った。

 昨年2019年、G20サミットが大阪で開催された際、EUのドナルド・トゥスク大統領は、来日したら必ず訪問したかったと広島と長崎を多忙なスケジュールに入れた。その時、世界の首脳たちが広島と長崎を訪問し、人類が手遅れにならないように軍縮すべきだと述べていいる(以下、参照)。
トゥスク大統領はポーランド出身である。日本とポーランドには、「負の世界遺産」として人類史上忘れてはならない記憶遺産として「アウシュビッツ強制収容所」と「広島原爆ドーム」が登録されている。

 梅雨が明けると、けたたましいほどに元気な蝉の声であるが、今日の蝉は、青空に響きながらも、どことなく寂しげに聞こえる。そんな日が15日まで続く。

2020年7月24日金曜日

海の日:「海洋国日本の繁栄」



 今日、2020年7月23日は海の日の祝日でした。
 2003年の「ハッピー・マンデー制度」から7月の第三月曜日が海の日の祝日になっていますが、今年は、新型コロナウィルスの感染拡大がなければ、明日7月24日が東京五輪の開会式でスポーツの日の休日になり、その前日に海の祝日が来ました。
 でも本来、海の日は7月20日なのです。それには意味があります。
 ちょうど10年前の2010年、私は、あるところで、7月20日がなぜ海の日なのかの理由を書いていました。




そして、今から16年前、2004年7月、私は、「政策空間」という当時存在していたネット上の政策提言サイトに、「海洋国家日本の戦略」と題する論考を投稿しました。そこでは、56年前の1964年(初めての東京オリンピックの年でもある)に高坂正尭先生がお書きになった「海洋国家日本の構想」を引用している。今でも示唆に富む内容である。



現在、日本周辺の海洋は、穏やかではない。海の安全も、漁業資源の保護や鉱物資源の開発も、さらには海洋環境も、さまざまは方面から脅かされている。
 そんな海から数々の恩恵を受けて生きながらえてきた日本人。これからは、美しく平和な海を保つために不断の努力をしなければならない、そんなことを考える海の日でした。
 7月20日、日本文化チャンネル桜の「フロント・ジャパン桜」の番組がありました。
「海の日」のこと、尖閣諸島や沖ノ鳥島にも触れました。どうぞ、ご覧下さいませ。















2020年6月23日火曜日

6月23日は何の日? ~「沖縄慰霊の日」、日米同盟条約発効、「オリンピック・デー」~

 2020年6月23日、本日は、1945年の沖縄戦が組織的に終結した「沖縄慰霊の日」75周年であった。毎年、この日は沖縄では休日となり、県民皆が平和を考え、祈る日となっている。
 丁度10年前、沖縄を訪問した直後、私は、次のようなことを記していた。

<沖縄は日米同盟の棘か光か>
 「沖縄問題は日米関係の棘である。」と言われることがある。何故か。それは、在沖縄米軍基地にまつわる事件・事故が大きな反米・反基地運動につながり、それが良好な日米同盟関係を揺るがすきっかけになることがあるからである。1995年の少女暴行事件しかり、2009年の民主党政権誕生後の普天間基地移設問題しかりである。
<棘の背景:二つの歴史>
 沖縄と米国との関係には、本土とは異なる二つの歴史がある。一つは、太平洋戦争末期、沖縄本島で繰り広げられた米軍との沖縄戦である。数か月(1945年4月1日~6月23日)にわたる激戦は、沖縄県民に多くの犠牲をしいた(役20万人の戦没者のうち半数以上が沖縄県出身者)。想像を絶する戦いである。今でも、島のあちらこちらに、その跡があり、自然と手を合わせたくなる。
 もう一つ、本土と異なる歴史は、1952年に日本が米国(GHQ)の占領から独立した後も、沖縄は、米国の統治下に置かれたことである。それから沖縄が日本に復帰するには、1972年まで20年かかった。終戦後の1945年から1972年までの27年間に、沖縄の米軍基地が固定化してきたことは否めない。
<沖縄県民と米軍との良好な関係>
 「沖縄は日米関係の棘」と言うと、まるで、沖縄が日米関係のマイナス要因になっているような印象を与える。しかし、沖縄は、逆に、「日米関係の光」として、プラス要因として考えることも出来るのではないか。筆者は、今回の沖縄訪問を終えて、そんなことを思った。
 2010年3月29日、筆者は、那覇で、春の選抜高校野球で、沖縄の甲南高校がベスト8に進出する瞬間をテレビで視た。そして、「もしかしたら優勝するかも」と思っていたら、それが現実となった。現在、米国の大リーグでは、イチロー、松井、松坂等、日本の野球選手が活躍しているが、実は、沖縄の高校が野球に強いのは、米具の存在と無関係ではない。嘉手納基地近くの嘉手納高校も有名である。そして、キャンプ・シュワブの初代中隊長のテイラー大尉が少年野球チームを結成したこともあった。甲南高校に関しては、米軍がヘリコプターを提供して、練習試合のある石垣島(那覇から約400㎞)まで送迎したこともあるそうだ。
 野球のみならず、沖縄駐留の米軍が沖縄県民等のために尽くした例は少なくない。今回、沖縄を訪問して、幾つかの美談を聞いたので紹介する。一つは、臓器移植の話である。2000年11月、キャンプ・キンザー(海兵隊基地)のパケット司令官が、脳梗塞で倒れ、脳死と判定された。パケット大佐は、かねてから、「万一の時は、沖縄を愛した証として、臓器沖縄県民および日本人に提供したい」と話していたことから、遺族は、大佐の臓器提供を申し出た。その結果、大佐の腎臓と角膜は、福岡、熊本及び沖縄の患者さんに提供された(恵龍之介「尖閣、沖縄が危ない!」『諸君』2006年5月号参照)。)この大佐の遺志を継ぐ米軍関係者は多く、彼らの中には、自分の子供が亡くなった時に、日本で、その臓器を提供したものもいたと聞いた。心に響く話である。
 もう一つ、米軍兵士が沖縄県民の命を助けた話も聞いた。ショッピング・センターの前で、心臓麻痺で倒れた沖縄県民を、通りがかりの海兵隊の将校が蘇生をして命を救ったという話である。このような例は一件ではない。交通事故で瀕死の重傷を負った若者を、救命隊員が来るまでの間、米軍兵士が蘇生をして、一生を取りとめたこともある。この若者の父は、反基地運動家であったが、この出来事以来、反基地運動を止めたそうである。この他にも在日米海兵隊は、海岸の清掃等のボランティア活動、地域との交流事業(年1500回以上)を行ない、地元の「良き隣人」になろうとしている。また、アメリカ婦人福祉協会は、ギフトショップの売り上げを、10年間で200万ドル(約2億円)、沖縄の慈善事業に寄付している。
 このように、沖縄県民と米軍との関係は、決して負の側面(棘)ばかりではなく、プラスの側面(光)もある。
(以上2010年4月記)

 また、沖縄訪問で、何人かの方々にインタビューをさせて頂いたメモの中に、次のような記述を見つけた。
 「沖縄戦の慰霊の日には、米軍基地内でも慰霊祭が挙行される。その際には、米軍の犠牲者のみならず、沖縄そして日本人の犠牲者も追悼する。牧師の祈りの他に、必ず、日本国歌「君が代」が吹奏される。1968年、ある沖縄県民が父に連れられ参列した時も、米陸軍音楽隊が最初に「君が代」を演奏したのを記憶する。それは、沖縄県民及び日本軍が立派に戦ったことへの崇敬の念である。」

 この日本人の戦いぶりへの「崇敬の念」は、筆者が、2014年12月、パラオ共和国の激戦地ペリュリュー島を訪問した時にも感じた。圧倒的に優位だった敵の米軍に対して、一生懸命、家族や国を守るために戦った日本人の生き様は、相手への伝わったのだろう。

  本日、沖縄慰霊の日には、糸満市摩文仁の平和祈念公園で式典が挙行される。戦没者の氏名が刻まれた「平和の礎」の前方に広がる海は青く美しいが、何故かとても切なくも感じられる。祈りの手を合わさずにはいられない。

 今日6月23日は、偶然にも、1960年1月に岸信介総理がアイゼンハワー大統領と合意した「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障に関する条約」が発効した日でもある。本年は60周年にあたる。一般に「日米安保約」と呼ばれるが、正式な条約名にもあるように、条文の記載でも、この条約は、安全保障のみならず、日米両国民の福祉の向上や経済協力も謳っている。

 「昨日の敵は今日の友」。75年間、日米間の絆が育まれてきたからこそ、そして60年間、日米同盟が安定に発展してきたからこそ、日本はある程度平和と繁栄を享受できたのだと思う。英霊に、先人に、そして皆々様に感謝する。

 6月23日は、「平和の祭典」と呼ばれる古代のオリンピックを、近代復活させることが1894年にパリのソルボンヌで決まった日でもある。これについては、拙著『オリンピックと日本人の心』(内外出版)又は "The Olympics and the Japanese Spirit"(22世紀アート、英語版)をお読み頂きたい。


  

2020年4月15日水曜日

米FBIも指摘する、新型コロナウィルスで急増したズームの危険性

【Front Japan 桜】デマに惑わされないために -新型コロナお役立ち情報- / FBIも指摘する、
コロナで急増したズームの危険性[桜R2/4/13]


最近問題続発のzoom。zoomの社長もこれを認め、改善には90日以上かかるという。
危険を知ったうえで子供達に使用させたり、部下や大衆に使用させたりして何か起きた場合、どのように責任をとるのだろうか。暫くは別のアプリにした方が良いのでは?
54分頃からです。


2020年3月31日火曜日

新型コロナウィルス:第3の波に備えて、日本は早めの行動制限を


昨年(2019年)冬に中国の湖北省武漢市で発生した新型コロナウィルスの感染は、その感染の拡大規模を、中国から世界全土へと広げていった。

筆者は、本年(2020年)1月27日から、日本文化チャンネル桜の「フロント・ジャパン桜」と言う番組で、この武漢肺炎、新型コロナウィルス(COVID-19)の感染症は、尋常ではない事態をもたらすと、ほぼ毎週月曜日ごとに警告してきた。昨日3月30日で、丁度2か月が経ち、様相は、想像以上に悪くなっていることを懸念している。毎日の感染者数や死者数は、日ごとに増えるばかりである。医療現場や、検疫所、保健所等の現場での必死の対応に感謝する。筆者は、自らの非力を感じながらも、2か月、自分なりに世界情勢を分析してきて、今回発見し、今後、日本が早急に取るべき対応について、以下、記しておきたい。

COVID-19始め、感染症の特徴は、人から人へうつすことで患者数が増えることである。そして、その人から人への感染は、人の移動によって急増し、また、国境を越えて莫大な広がりをみせる。今回の事例が、まさにグローバル化時代の怖さを語っているが、この2か月を見てきて、筆者は、今回の感染拡大の流れには、3つの波(段階)があることを発見した。第Ⅰ波は、1月末の春節の休みを利用した中国人の大移動であった。武漢から中国全土及び世界への移動がそれである。例えば、北海道の雪まつりに中国の団体観光客が訪れていたのも、この頃である。その人達から、世界の各地に新型コロナウィルスが広がり、それが発症してきたのが2月中旬以降の第2波と言えよう。その頃から、各国は国境を閉め始めたが、既に国内に感染者が多数いる。その人達の移動を介して感染がさらに拡大したのが3月で、第3の波と言えよう。すなわち、①武漢から中国や世界へ、②世界から世界へ、③国内から国内へ、と新型コロナウィルスの感染は拡大していった。

中国は、第1波で国境を閉め、国内移動を制限した。既に、第3波になっていたので、慌ててやった。そのため、多くの死者を出したが、国境封鎖と移動制限の効果が、そろそろ出て来た。

台湾は、第1波から第2波の段階で、早くに国境を閉め、国内では徹底した消毒と検温チェックを行い、感染拡大を、いまのところ抑えている。

欧州(EU)や米国は、日本より早めに第2波で外側の国境を閉め始めたが、中の移動は制限していなかったので、そこでの感染が拡大した。そして、今、第3段階で、国内、市内の移動制限をしている国もあるが、それまでの患者数が多いので、医療崩壊をしてしまった所は、死者が増えている。イタリアでは3週間以上の都市封鎖、英国では2週間以上の都市封鎖を実行し、多少の効果が出て来たと、ロイターで報道されていた。

さて、日本の場合はどうか。現在は、第2波から第3波の過程にあると言えよう。国境を閉じるのも遅く、移動制限もないままで、今後が心配である。一般国民1人1人の衛生観念や健康意識が高いので、マスク、手洗い、うがい等で感染の急拡大を防げていた点はあるにしても、先進諸国で国境を完全には閉鎖せず、移動制限もない数少ない国として、まだ感染者が入国し、さらに国内でも感染も広がる危険がある。多くの日本企業は、既に自宅勤務(テレワーク)等を実施しているが、政府が早めにある程度の移動制限をしないと、感染は止まらないだろう。他国が収束傾向にある時期に、日本が医療崩壊しかねない可能性さえある。なお、最近の世界全体の状況を見ると、今まで感染者数が少なかったアジア、アフリカ、中南米等の諸国でも、感染が増えている。この点も気になるところであり、早め早めの入国制限が必要だろう。来年のオリンピック・パラリンピック開催国としても、日本の対応は、世界が注目するところとなる。

参考:世界のCOVID-19感染者数等 https://www.worldometers.info/coronavirus/








2020年2月16日日曜日

新型コロナウィルスと中国、そして日本の危機管理?

2020年2月15日現在、日本でも新コロナウィルスによる死者が出てしまい、中国内でも日本人がお亡くなりになりました。日本国内の感染者も3桁になってしまいました。
米国は、チャーター機で、自国民の救出をするために、日本にやってきます。すなわち、中国と同様に、日本(横浜停泊のダイヤモンド・プリンセス)に自国民をおいていては命を救うことはできないと判断したわけです。
 1月27日の放送で、すでに私は、新コロナウィルスに関する日本の危機管理に警笛を鳴らしました。全く聞いてもらえず、事態は悪化しました。
 今でも都内あちらこちらで、中国からの旅行者が元気に遊んでいるそうです。
 一方、日本の地方(和歌山県)の病院では外科医の方が複数、感染されたそうです。大切な医療関係者が、中国発の感染症にかかってしまったこと、とても遺憾に思います。
 旅行者のみではありません。あまりに急激なコントロールのきかない人々を日本に入れすぎてしまった安易な政策は考え直すべきでしょう。そうでないと、日本政府が日本人を助けるどころか、犠牲にしてしまうことになりかねません。
 以下、3週間連続で、数字を挙げながら、海外の情報も参考に、現実的にお話し致しました。



                 








2019年7月2日火曜日

平成は本当に平和な時代だったのか? .

   令和に入って、既に2か月が過ぎました。少し前の映像ですが、今後の日本の安全保障や憲法論議を考える際にも、参考になりますので、是非、ご覧下さい。
 一般の大手メディアで言われていた、「平成は(災害が多かったけれど)平和で良かった。」と言う歴史の見方を覆す解釈です。1時間すぎから1時間20分くらいまでに「平成は本当に平和な時代だったのか?」というテーマで語っています。
 その根拠は?
1 平成以上に長い期間、昭和の方が平和だった。
2 日本の世界的地位は下がった(GDPの伸び率)。
3 隣国では、GDPの伸び以上に、軍事費が伸びた(軍拡)。
4 北朝鮮がミサイル発射を増加させたのは平成時代。
5 北朝鮮が核実験を行って核開発したのは平成の時代。
6 「戦争」の定義の変化で、テロとの戦い、情報戦、技術戦、法律戦、「貿易戦争」、
心理戦、サイバー戦争、宇宙等、目に見えない「侵略」も含め、多様で複雑な「戦争」の形態。
=>人類の歴史を顧みると、「平和」と思っている時代は、単に「戦争の準備をしている時代」?
そう思うと、安心はしていられないし、平和のノスタルジーも要らない。
重要なのは、平和を維持するには、軍事も外交も含んだ様々な手段による不断の努力が必要だということ。