2月1日、石原慎太郎先生の訃報に触れ、また一つ時代の頁がめくられた気がした。
作家、元都知事、元国会議員等、様々な顔を持たれた
石原慎太郎先生。最期まで現役を貫かれ、筆を離さなかったそうだ。
かつて日本では、男性の雰囲気を単純に二つに分け、「ソース顔」、「醤油顔」、どっちが好み?等と聞くことがあったが、
石原裕次郎ファンが大勢いる中、
石原慎太郎ファンも多い。筆者も、
石原慎太郎先生を、恰好いいと思った一人である。
初めて目の前でお目にかかってそう思ったのは、確か、
1993年10月4日頃、中山太郎衆議院議員(元外務大臣)にお供して秘書として初めて勤務した日、清和会(自民党福田派)の幹部会があり、その直後であった。
まだ20代だった筆者は、緊張して廊下で会議が終わるのを待っていると、中から、
石原慎太郎先生、森喜朗元総理等、テレビで拝見していた方々が、目の前にぞくぞくと表れる。廊下には私以外誰もいないので、皆様がお通りになる度に目が合ってしまい、ただただ無言で会釈をしたのを覚えている。
廊下の先の小部屋には、福田赳夫元総理がいらして、中山太郎先生が、筆者を、「この人、外務省でフランスにいたんですよ。」と紹介下さると、福田赳夫大先生は、「オー、マドモアゼル」と声をかけて下さった。
石原慎太郎先生は、言動もかっこよさがあり、目だっていらしたかもしれないが、
ただ、その風貌のみでも、背がすらっとして、見栄えがした。
筆者が仕えた中山太郎先生と
石原慎太郎先生は、単に清和会でご一緒だったいうのみならず、少なからず共通点があった。お二人とも、参議院から衆議院に鞍替えされた。お二人とも、執筆し本を出版される。
現場主義で、実物を見にフットワークも良く、若い時から海外にもよく行かれていたようである。そして、派閥政治よりも、ご自身の個性や、国を主軸に考え、政治行動されていた。
そして、家族思いでもあった。
そう思って書いていたら、以下のサイトで、1994年1月26日の写真を見つけた。自民党のベテラン議員が、派閥による分裂に危機感を持ち、「無名会」として集まったとした写真を見つけた。映っているのは、石原慎太郎、中山太郎、小渕恵三、渡部美智雄、武藤嘉文の各先生である。
当時は、自民党が第一党であるにかかわらず、連立を組めず野党に転落し、バブル後の日本は、政治的にも経済的にも、不安定な時期であった。国家の行く末を憂えた先生方の姿として映る。今や、この5人のサムライのうち、ご健在なのは、
96歳の中山太郎先生のみになってしまった。
石原慎太郎 > 政界へ進出 TV・出版・報道向け写真ならアフロ | 写真素材・ストックフォトのアフロ (aflo.com)
筆者が永田町に勤務する間に、驚いたニュースの一つが、
石原慎太郎先生の突然の国会議員の辞任であった(1995年4月14日)。
国会議員25周年勤続は、国会の委員会室に肖像画が掲げられる程、名誉なことであるが、
そのお祝いすべき本会議の演説で、
石原慎太郎先生は、突然、議員を辞職することを発表されたのである。正直、ショックだった。
しかし、ご存知の通り、
石原慎太郎先生は、都知事として政界に復帰。その手腕は存分に発揮された。
特に印象深いのは、尖閣諸島に関して、それを守るべく、個人から都が買い取ることを米国で発表し、その資金を、多くの善意の国民から集められたことだ。結局、国が買い取ることになったが、もし
石原都知事の主導力がなかったら、とっくに中国に取られてしまっていたかもしれない。
石原都知事は、良き、信頼できるブレーンを、日本の首都、東京をより良くするために引き入れた。その一人が、猪瀬直樹副知事であり、また、都民や国民の命を守る役割を担う、災害、危機管理担当の元陸上自衛隊の志方俊之陸将である。両者とも、筆も達者な、まさしく「ブレーン(頭脳)」であった。
2003年か2004年頃、筆者が東京大学特任助教授として、御厨貴研究室の「安全・安心プロジェクト」に関わっていた時、東京都で天然痘テロ図上演習が開催されたことがあり、見学をさせて頂いた。都庁内で行われたシミュレーションで、訓練の中で、記者会見の部分では、石原都知事自らが参加された。遠めに拝見させて頂いたが、記者達の質問よりも、先を行くのが
石原都知事であった。
石原慎太郎先生は、信念の人、行動の人、そして人生を楽しんだ方だったと思う。
国の将来を思う気持ちは人一倍で、自分にも人にも正直に接した方だったような気がする。ユーモアやお茶目な面もある。
石原慎太郎先生が、コロナ禍においても、一時、膵臓がんを克服された時の手記が下記、文春に出ていた。人生の大変さ、面白さを書いたものでもある。
元東京都知事・石原慎太郎氏が“87歳での膵臓がん”との闘いを告白した手記「まさに丁か半か。私の運命の分かれ目」(文春) - Yahoo!ニュース
元東京都知事・石原慎太郎氏が“87歳での膵臓がん”との闘いを告白した手記「まさに丁か半か。私の運命の分かれ目」 | 文春オンライン (bunshun.jp)
今回の訃報は、とても悲しいが、
石原慎太郎先生は、「今ある人生を精一杯生きろ。」と私達に語りかけて下さっている気がする。下記の亀井静香先生の言葉が、とても印象的である。
まず、お読み頂きたい。
石原慎太郎が盟友・亀井静香に病床で語った最後の言葉 「涙を流しながら『また会おうな』と」〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース
日本は、天照大神様を祖先とする国家である。
『太陽の季節』で一世を風靡させた石原慎太郎先生。
「太陽は沈んだけど、陽はまた昇る。石原慎太郎は日本人の心の中にいつまでも残り、彼は永遠に生きていくんだよ」
いつまでも、格好よく、私達に、励まして下さる存在。
石原慎太郎先生、有難うございました。(合掌)
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