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2020年12月27日日曜日

外交官の書いた本から…

 今年読んだ外交官の友人が書いた2冊の本がある。


 一つは、加納雄大著『原子力外交~IAEAの街ウィーンからの視点~』(信山社)、もう一冊は、大隅洋著『日本人のためのイスラエル入門』(ちくま新書)である。

 いすれも、それそれが駐在したオーストリア、イスラエルの経験をもとに、さらに勉学を深めて書かれたものである。写真も挿入され、様々な場面を浮かべながら読み進むことができる。

 ふと、論語の一節を思い出す。

「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)。」


 お二人の書物を読めばわかるが、常に、学びて思い、思いて学ぶ、そんな繰り返しで書かれている。おそらくお二人の外交官生活もそうなのであろう。


 私も、そんな方々を見習いながら、実地を歩きながら、さらに書物や資料にあたりながら、学びて思い、思いて学ぶ、そんな姿勢を続けて行きたいと思う。

 そんな気持ちで書いた拙著も、来年に向けてお読み頂けたら有難い。

 来年は東日本大震災から10周年。そして史上初のオリンピックの延期開催。

 コロナ禍で、私達は、何を思い、何を見出すのか。

 地球を俯瞰して、考えてみたい。







2020年12月26日土曜日

祈り

  聖夜は世界中で祈りが捧げられた。

 祈りは、人類共通の行ない。

 それに、人生、様々なことがあって、どうにもならない時ほど、祈りを捧げたくなる。

 

 今年の夏、産経国際書展に、渡邉麗先生が出品されたのが、上記の作品、

「いのりいのりいのる」


 先生には、拙著The Olympics and the Japanese Spritの題字を書いて頂いた。



 世界中の人々の心に響く、

 先生の書は、「祈り」そのものであると感じる。

 感謝の一日。

 2020年(令和2年)師走 最後の土曜日に。

鈴木くにこ


2020年12月25日金曜日

コロナ禍のクリスマスに

  中國の武漢発の新型コロナウィルス(Covid-19、以下コロナ)の発生から1年以上が経った。

 感染者急増による医療体制の逼迫、都市封鎖による経済への打撃、社会構造の変化、自由
や人との交流の制限等、様々な問題やひずみが起きている。

 そして、今日、クリスマスの日も、世界各地でコロナとの戦いは続いている。

 (参考)

都内の最新感染動向 | 東京都 新型コロナウイルス感染症対策サイト (tokyo.lg.jp)

新型コロナウイルス 感染者数やNHK最新ニュース|NHK特設サイト

米国 コロナ死者数が2次大戦の戦没米軍人数を超える - Sputnik 日本 (sputniknews.com)

新型コロナ: 欧州、感染再拡大で医療逼迫 忍び寄る「命の選別」: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 『日本を襲ったスペイン・心ンフルエンザ~人類とウィルスの第一次世界戦争~』の著者、速水融先生の言葉を借りれば、現在、私達は「人類とウィルスの第二次世界戦争」を戦っているのだと思う。

(参考:日本を襲ったスペイン・インフルエンザ――人類とウイルスの第一次世界戦争 )(fujiwara-shoten-store.jp)

 この戦争を打ち克つには、人類が団結して行動しなければならない。一人ひとりの行動が全体を左右するし、一国の行動が世界を左右する。

 One for All for Without Corona.

 この戦いの中で、With Coronaはあり得ない。それは、コロナとの戦いに屈服したことになる。人と人が握手も出来ない、抱き合うことも出来ない、そんな社会で良いはずがない。

 クリスマスは家族が集い、平和や健康に感謝し、恵まれない人々に心を寄せる、そんな静かな聖夜である。

 暗い夜を照らすキャンドルは希望の光であり、ご馳走は明日へのエネルギーである。

緑のリースは永遠の命を、そして赤は愛や太陽を表す。

 穏かに、力強く、Be gentle, but Be strong, 

 まだ続く戦いに備えよう。

 「賢者は歴史に学ぶ」と言うが、1918年~1920年のスペイン・インフルエンザでは、4500万人が(世界人口約18億人)亡くなったと言われる。3年間に第1波~第3波までの大きな波があり、日本では、第2波で感染力の拡大(死者最多)、第3波で猛毒化(致死率の上昇)があった。RNAの遺伝子を持つウィルスは変異しやすいから扱いにくいとも既に言われていた(前出、速水著参照)。

 100年前と今日を比べ、技術革新のプラスとマイナスが表れている。感染症の治療法の蓄積やワクチンの開発等が早期に進んでいる点はプラスなのかもしれない。他方、交通網の発達や自由化による人のグローバル化は、ウィルスまでもあっという間にグローバル化してしまい、一部で感染が収束に向かっても、また他からもたらされたら再発、気を抜けない。モノ・カネのグローバル化も100年前とは比べ物にならない。相互依存の深化は、win-win関係ももたらすが、共倒れや世界恐慌もあり得る。

 だから、

 コロナ収束のためにも、明日のために、今日は静かに夜を過ごそう。

 聖夜の祈りとともに。

 Merry but Peaceful Christmas...

   December 25, last Friday of 2020

  鈴木くにこ

 



2020年10月1日木曜日

十五夜(お月見)

 今日は、中秋の名月、十五夜でした。

 月を見て、思い出すのが、高校生の時、フランスの老婦人から聞いたお話です。

「かつて夫(おじいさん)が戦争に行っている時、ああ、同じ月を見ているのだなあ、と思いながら、帰りを待ちました。」と、歩いて夜の月を眺めながら、私にフランスのおばあさんが語ってくれました。

 「天の原、ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」(阿倍仲麻呂)

 奈良の風景を思い浮かべる、百人一首のこの歌も好きです。

 ♪うさぎ、うさぎ、何見てはねる、十五夜お月さん、見て、はー(ああ)ねる♪

 あれ、うさぎさんは、月の中にいるのでは?

 十五夜に欠かせないのが、お月見団子とすすき。
 東京にいると、ススキはなかなか手に入りませんが、今頃、箱根の仙石原あたり、もうすでに寒くて、すすきの原が秋らしく、風にそよいでいるのかも。

 お月見団子はこの季節だけだけれど、お月見うどんなどは、一年中ありますね。
 そうそう、三笠山と言えば、どらやきも美味しいです。

 やっぱり、食いしん坊の私にとって、秋は、味覚、食欲の秋です。
 今日は、初物の栗を茹でて、頂きました。
 秋の収穫に感謝です。

 

2020年9月20日日曜日

オリンピックの灯を絶やしてはならない


 オリンピックの火を絶やしてはならない。何故なら、オリンピックは、困難な時にも、人類の希望の光、平和の火として、人々に支えられながら、灯し続けてきた歴史があるからである。

 コロナ禍で、東京オリンピック・パラリンピックが一年延期された。中止でなく延期とされたのは、そこに開催の希望を見出してのことである。しかし、新型コロナウィルス(COVID-19)の世界的収束の兆候はまだ見えない。そんな中、年末までに、IOC(国際オリンピック委員会)が何らかの正式決定をするとの報道がなされている。

 なかには、オリンピックは中止した方がいいとの声も聞かれる。しかし、私は、困難な時だからこそ、創意工夫をして、オリンピックを開催すべきだと考えている。もちろん、アスリートや大会関係者、観客等の安全対策を怠ってはいけない。

 開催すべき理由は、幾つかある。
 
 まず、世界中のアスリート達が、4年に一度のオリンピック・パラリンピックに向けて、自らの人生をかけて挑んできた。生まれて初めて参加する者もいれば、生涯最初で最後の参加になる者もいるだろう。彼らの人生をかけた努力は並大抵なものではない。その努力の発揮の機会を、容易に奪ってしまって良いのだろうか。

「賢者は歴史から学ぶ」」。ちょうど100年前、1918年~1920年、第一次世界大戦の末期から戦後処理の時代、世界を襲ったのが「スペイン風邪」と呼ばれたウィルスだった。その死者は、世界大戦の死者をはるかに超え、世界で4500万人。当時の人口を考えると、各地で甚大な被害があったことが想像できる。そんな中でも、1920年、ベルギーのアントワープでオリンピックは開催された。4月から9月まで、規模を縮小して行われたようだ。初めて選手宣誓がされ、近代オリンピックの祖であるクベルタン男爵が考案したとされる五輪マークの旗が採用された。

戦後処理や財政難に悩まされたオリンピックは、他にもあった。第二次世界大戦で、1940年の東京と1944年のロンドン大会が連続で中止となり、その後が危ぶまrたが、オリンピックは、1948年にロンドンで再開された。ロンドンでも食糧が配給時代、選手たちは、文字通り「手弁当」で参加したそうだ。日本は、敗戦国であり、米軍の占領下に置かれていた時代、オリンピックのへの参加は認められなかったが、神宮プールでは、同時刻に選手たちが水泳競技を行い、金メダル以上の世界記録を達成したという。

そもそも、近代オリンピックの始まり1896年の第1回アテネ大会から、財政難で開催できるか不安が合った中、ギリシア人の大富豪がオリンピック予算の半分程度を提供し、皆がその善意に誘われるように寄付をして開催にこぎつけたと言う。

こういうオリンピックの困難な歴史を見てくると、現在のコロナ禍で、簡単にオリンピックの火を消してはいけない気がしてきた。既に、各国は、WithコロナとかPostコロナと言って、感染拡大を防止する様々な処置を講じながら、経済活動、教育活動等、日常生活を送っている。

それなら、オリンピック・パラリンピックも同様に、Withコロナ、Postコロナを前提に考えてみたらどうだろうか。コロナ禍でしかできない東京オリンピックが新たな歴史を生むかもしれない。
 例えば、水泳競技など個人・チームの記録を競うものは、世界幾つかのプールを同時中継し競うという方法もある。既に、日本では、長野オリンピックの開会式で、小澤征爾指揮のもと、世界5大陸を中継し、「歓喜の歌」を演奏した経験がある。
 柔道など、対面で争う競技については、PCR検査を徹底させ、陰性の限られたメンバーのみ期間限定で場所を定めて練習及び試合を行う。感染者が出たら即刻一時停止し、少数なら消毒して再開、クラスターなら中断など決めておく。
 観客等については、マスク、アルコール消毒、人と人との距離を開ける等を徹底させる。当初より観衆が少なくなってしまうのは止むを得ないだろう。その分、オンライン等で対応する。

 こうして考えてみると、この我々のコロナ体験は無駄ではなかったのかもしれない。「2020+1」の「+1」には大きい意味がある。2020723日に池江璃花子選手が国立競技場で行ったメッセージが目に浮かぶ。

 歴史は人が作る。オリンピックも例外ではない。



2020年8月15日土曜日

終戦記念日75周年



 本日、2020年(令和2年)8月15日、第二次世界大戦の終戦記念日75周年を迎えた。靖國神社には、新型コロナウィルス(武漢肺炎、COVID-19)や猛暑にもかかわらず、例年以上に大勢の方が、朝早くから列をなし、お参りしていた。足を引きづりながらも靖國神社に向かう女性、腰を曲げながら長い列に並ぶお年寄り、短パン・Tシャツ姿の若者、子供を抱きかかえたお父さん等々、それそれが様々な思いで、終戦記念日に九段の杜に参拝に訪れる。靖國神社は昨年(2019年)、明治2年から創建150周年を迎えた。すなわち、そこには、日本の歴史が、75年の倍、150年以上が刻まれているのである。近現代の日本を支えてきた多くの御霊が存在するのである。

 15年前、戦後60周年に、筆者が書いた論考がある。今でも変わらないことがほとんどである。以下に、そのまま掲載する、一読頂けたら幸いである。

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史の学びから平和を築く一若き日の経験から一
2005年8月
鈴木くにこ
はじめに
本日2005年8月15日、日本は、第二次世界大戦の終戦から、60周年を迎えた。例年通り、日本武道館では天皇、皇后両陛下ご臨席のもと、全国戦没者追悼式が挙行された。小泉総理は、千鳥が測の戦没者墓苑に献花を行ない、大勢の人々(20万人以上)が靖国神社に参拝した。この日テレビでは、高校生にインタビューする様子が放映された。高校生たちは、「戦争はよくないことなので、もうしないでほしい」とか「今、平和でよかった。これが続けばいい」という発言をしていた。とても素直な感情だと思う。そして、筆者は、自分の高校生時代に、ある教師から言われた言葉集を思い出していた。「平和を願うだけでなく、平和を築く人になりなさい」と。フランスの高校への留学が決まった筆者への、酸(はなむけ)の言葉だった。現在、教科書を含む歴史間題が国内外で大きく取り上げられている。60年目の終戦記念日も、このことを考えざるを得ない心境になった。そんな時、思い出すのが、筆者がフランスで受けた歴史教育である。当時のことを振り返りながら、今日的識論に一考察を与えるのが、本稿の趣旨である。

フランスの教育より学ぶ
ロータリー青少年交換計画の留学生として、高校3年生の時、一人、渡仏した。今から20年以上前のことである。現地の高校3年に入り、授業の進め方にショックを受けた。日本では、主に、1冊の教科書をもとに、先生が板書をしながら、授業を進める。一方、フランスでは、指定の教科書というのはなく、先生は授業の間、ずっと話をし、その内容を、生徒たちがノートに書き留める。後は、各自が図書館や本屋に行って、様々な書籍、資料に触れ、調べものをしながら、考えを深めて行くのである。そして、試験は、すべて論文形式で行なわれる。教科書を丸暗記すればよいというものはない。間われるのは、論理的思考とフランス語の文章表現である。では具体的に、歴史の授業では、どのようなことを学ぶのか。高校3年次では、第一次世界大戦、第二次世界大戦が主要なテーマとなっていた。両大戦において、フランスはドイツと戦闘を直接交わした国である。その国で、例えば、ヒットラーをどの様に表現するのか。日本では、ヒットラーはナチス党を率いた独裁者として、悪人扱いの勧善懲悪の教育が普通であった。それに対して、フランスでは、ヒットラーという人物、ドイツという国家を、より客観的、冷静に捉えようとする教育がなされていた。一例を挙げれば、ヒットラーが台頭した原因、経緯を記述する論文で、第一次大戦後の戦後処理でドイツ経済が疲弊していたこと、ヒットラーが民主的選挙で選ばれたこと、ヒットラーの生い立ち等を学ぶのである。そこでは、ヒットラーは悪人で非難すべきという教育よりも、様々な条件・環境が整えば、どこにでも存在しうる人物として表現される。歴史の応用で現在をも学んでいるのである。「独仏の和解」というと、両国首脳が手を結びかつての戦場に立った写真を思い出す(後日注:ミッテラン仏大統領とコール独首相のヴェルランでの写真)。こうした表の演出を支えるのが、実は、何十年も続いてきた青少年交流や教育なのではないか。フランスの歴史戦育を回顧しながら、そんなことを思った。

歴史の学び
「賢者は歴史に学ぶ」と言われるが、では、なぜ歴史を学ぶのか。過去の過ちを繰り返さないために歴史を学ぶのだとすれば、過去の過ちの事実を非難するだけでよいのだろうか。誰々が悪いと非難し責任追及をすれば済むのであれば、事は比較的簡単であり、誰にでも可能な教育である。しかし、例えば、社会の様々な事件にもみるように、重要なことは、罪の責任追及ばかりでなく、罪の原因迫求である。「なぜ、そうなってしまったのか」という、「なぜ」の部分を解明しなければ、同様の過ちは繰り返される。そして、その「なぜ」を考え、「なぜ」を探求することこそ、歴史教育に求められているものではないだろうか。そこで指摘したいのが、政策形成過程を研究する重要性である。政府の決定の結果ばかりを迫うのではなく、そこに至る過程や、世論など、政府を取り巻く様々な現象を丹念に見て行く作業である。この点、筆者が出合った良書を紹介しておきたい。第二次世界大戦の日本の敗戦を決定的にし、日本の戦後史にも大きな影響を及ぼしたのが対米開戦であるが、これを題材にした猪瀬直樹著 『昭和16年夏の敗戦』及び 『黒船の世紀』である。前者が、内閣の総力戦研究所の「対米開戦すれば日本は敗戦する」との結論を主題にしたのに対し、後者は、日露戦争後から日米両国で多数出版された「日米未来戦記」が大きなテーマになっている。二つのベクトルに対し、結局、政府は、「日米未来戦記」の方に傾いてしまったのである。

歴史を見る眼
アーノルド・トインピーは、「歴史とはそれをみる立場や目的により初めて歴史が生まれる」と述べた。歴史の共通認識が可能かについて考える時、この言葉はドイツ大統領が戦後50周年の式典で述べたことを想起させる。ドイツの終戦記念日を敗戦とみるか解放とみるか、加害者と被害者、どこでどんな経験をしたか、個々人によって歴史の経験は異なるというものである。従って、事実は一つだとしても、その感じ方、経験に基づく歴史認識というのは、千差万別ということである。歴史を一面的にみるのでなく、複眼的、多層的に見ていく努力が要請される。「一つの尺度(正義)で歴史は書き得るものではない」ということ(平間洋一著 『日英同盟』 PHP新書)にも通じる。もう一つ、歴史を見る眼で重要なことは、「現在の価値観で当時の歴史をみてはならない」ということである(前掲平間著)。例えば、民主主義の価値や植民地主義に関しても、現在の価値観で見ていたら、当時の歴史は見えてこない。2003年度の一年間、筆者は、某私立大学で政治外交史の教鞭をとった。上記の点を、学生にも伝えながら、筆者自身もなるべく、当時の国際環境及び日本国内の政策決定過程等を説明した。試験で「日本が参戦した戦争の具体例を挙げ、その背景、日本の対応、経緯、結果、その後の国際環境について記し、最後に所感を述べよ。」との質問に、ある中国人留学生が、日清戦争を選択し、所感として、次にように記した(原文のまま)。「今こそ、日本と中国は、世界平和維持のために、国際政治に対して、一緒に努カすることが望まれる。歴史の戦争はもう過去だった。私たちは平和の道を一歩一歩歩んでいくことは、非常な努力を要することであると考える。そうしたら政治外交史の授業を受けると良かったと思う。私は最近世界史、外交史などいろいろな事を近くつけるようになると感じる。私は中国の留学生にとって、この授業中の時代の背景、過去の人間が置かれた立場と自分の立場を比較較研究し、その成果を、自分の生き方を決定するための材料にすべきであると考える。」最近の日中間の歴史間題を考える時、この留学生の真拳な気持ちが心を打つ。こういう学生が増えて行けば、アジアにおける歴史教育も、欧州のように、平和を築く基礎になり得るのではないか。そんな、わずかな希望を持った。

おわりに
8月のテレビでは、「戦争はやだ」「平和がいい」と、当たり前の言葉ばかりが目立った。「平和を願う」ことは誰にでも出来る。では、「平和を築く」メッセージや行動はどの程度映し出されたか。なぜ平和は崩れたのか、どうしたら平和を築けるのかという難題にどれだけ真剣に向き合っているのか。自問自答しながら、今年も暑い終戦記念日を過ごした。「歴史の学びから平和を築く」そんな日がアジアにも来ることを切に願っている。欧州共同体に至る困難な道程を想像しながら、いつの日か真の平和のための東アジア共同体が生まれることを夢見ながら。
 2005年8月15日(60回目の終戦記念日に)

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 ここまで読んで頂き、東アジアの国際情勢が、15年前より悪化していることが理解できよう。75年間、日本が平和を築く努力を続けてきても、近隣諸国では、核兵器が増え、武力の威嚇が多くなり、かえって人々が怯えて生活しなければならないことが増えてしまった。
 どうしてか。その原因をきちんと考え、次の行動に生かすことこそ、今後のアジアの平和のために求められていることではないか。


2020年8月9日日曜日

「祈りの長崎」を訪れて

 
11年前(2009年、平成21年)の今日8月9日、私は、「原爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列していた。
 あれから11年、今日(2020年、令和2年8月9日)も、長崎では、あの日から75年目を迎え、人々は、核兵器のない、平和な世界を祈り続ける。
 8月6日投稿の本ブログで、広島には何回も行ったことがあると書いたが、長崎は11年前が初めてだった。現地で手にしたパンフレットに、「怒りの広島、祈りの長崎」と書いてあったのが印象に残っている。以下、当時の報告書に掲載された拙文を、ほぼそのまま引用する。
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三人の長崎人(「永」先人)との出会い
                         2009811日 鈴木くにこ

 200988日(土)、私は、初めて長崎の地に降り立った。海と山とに囲まれた穏やかな風景が私を包むように迎えてくれた。今回の訪問の目的は、「平和への祈り」。東京都千代田区平和使節団の一員として、89日に行われる「被爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列した他、原爆落下中心地、原爆資料館、平和公園、浦上天主堂、城山小学校、山里小学校等の被爆跡地を訪ね、千代田区民の方々が平和への思いを込めて折った千羽鶴を献架し、祈りを捧げた。一つ一つの場所で、多くのことを感じ取った。今回の訪問が私の人生観を変えたと言っても、過言ではない。それぞれ詳細に述べたいが、(今報告書では一人二頁と決まっているので、)ここでは、三人の長崎人との出会いに関して、記すこととする。偶然、お三方とも「永」という漢字が苗字につく。永久平和を願う長崎人(「永」先人)としてご紹介する。

Ⅰ故永井隆先生との出会い
 永井隆先生の生き様は、私の心に大きく響いた。永井隆記念館を訪問する前から、長崎市内の様々な場所に、永井先生の足跡を見ることが出来た。山里小学校内の「あの子らの碑」、そして城山小学校前の「永井坂」。今でも長崎の人々に尊敬されている先生のお姿が感じ取られた。永井隆先生は、長崎医科大学の放射線専門医として白血病を擢った上、長崎への原爆投下の日に被爆し、重傷を負った。にもかかわらず教護隊を組織して負傷者の治療に当たった。病に倒れられてから亡くなるまでの6年間に、床に伏しながら、 『長崎の鐘』を始め15冊以上の書籍を書きあげた。印税は将来の子供たちのために寄付し、自らは二畳の質素な「如己堂」で生涯を閉じる。永井隆先生は、従軍医師として二度、中国にも赴いている。医療に国境はないと、国籍に関係なく治療をしたと言う。永井隆先生の存在は、長崎の方々のみならず、日本人一人一人が誇りに思い、お手本にすべきものであり、また、世界の人々にも訴える普運の尊さがある。なかなか真似の出来ない生き方であるが、そのほんの一部でも見習たいと感じた。永井隆先生の言葉より。「どん底に大地あり」。被操の焼け野原にミミズを見つけた時の生命への喜び。常に希望を失わずに実行する力、そして明るさ。今の私達日本人に必要なものではないだろうか。

永野悦子さんとの出会い
 永野悦子さんは、被爆者の一人として、自らの御経験、そしてご自身の胸の内を、私達に語って下さった。当時16歳で、学徒動員で長崎にいたが、鹿児島に疎開していた13歳の妹と9歳の弟を無理やり長崎に連れ戻してしまい、その二人が被爆してせくなったことに、80歳の今でも自責の念に駆られていらっしゃった。「心の傷」は体の傷よりも深く辛いことを感じた。被爆直後の弟さんの身体は皮がs剥げ、抱くことさえ出来なかったこと、被爆から3日後に亡くなった弟の遺体に、自分達家族で火を付けて焼かなければならなかった辛さ、毛が抜け体中に斑点ができ苦しみながら1ヶ月後に亡くなって行った妹、50年間のお母様との心の葛藤と「ありがとう、ごめんね。」の和解、等々、淡々と語って下さる永野悦子さんを前に、私は涙をこらえることが出来なかった。今年で被嫌から64年を迎えるが、永野さんは、最初の50年間、経験した「生き一地獄」のことは忘れたく、言葉にすることさえ出来なかったと言う。が、亡くなった家族が生きていた証を残したい、被爆体験を語らなければいけないという思いから、話を始められた。そう思うと、私達は、「沈黙の声」にもっと耳を傾けなければならないのではないか、と感じた。

岩永信一さんとの出会い
 岩永信一さんは、単なるタクシー運転手さんではない。岩永信一さんは、長崎に誇りをもち、長崎の歴史・文化をこよなく愛し、それを私達に、心を込めて説明して下さった。被爆二世として、被爆されたお母様の苦悩も、静かにお話し下さった。被爆をされた後遺症で、坂を上るのも疲れ(長崎は驚くほど急坂の多い町である)、すぐに横になることが多かったそうだ。今でこそ、「被爆認定」されることが悪いこととはされないが、当時は、被爆者であることで、結婚できなかったり、就職できなかったりした。それ故、被爆のことは一言も口にせずに亡くなった方も多かったそうである。ここでも、「沈黙の声」が聞こえる。浦上天主堂の秘話も教えて下さった。当時、「東洋一」とまで言われた浦上天主堂の裁爆直後の写真は、数年前まで公開されなかったそうだ。世界遺産となっている広島の原爆ドームの数倍の規模での破壊。当時の長崎市長は、市民とともに、この被爆跡を残そうとしたが、米国の圧力で難しかったらしい。一部のみ、今日も残っている。

 長崎の郷土料理に、「卓祇(しっぽく)料理」というのがある。岩永信一さんによれば、地元の人は、これを「和華蘭(わからん)料理」と呼ぶらしい。すなわち和洋中折衷、様々な文化を取り入れた料理ということだ。そして、長崎の人々は、朱色の円卓を囲み、身分上下の差なく皆平等に料理をつまむ。長崎人が大切にした、異文化との共存共栄の道が、この食文化にも表れている気がした。そして、これは世界の平和にとって大事なことだ。岩永さんの心温まる応対、お気遣いにも感謝している。冷たいお手ふきと飲み物を用意して、暑い長崎市をご案内下さった。長崎人のホスピタリティ・を感じた。

 歴史は人が作る。穏やかな長崎人との出会いを通じて、多くのことを感じ、学んだ。「平和の祈り」の旅は、終わらない。千代田区平和使節団の役割は、世界で戦争が絶えない限り、続く・。.。(合掌)
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 当時、長崎の永井隆記念館の館長をされていた、永井博士のご子息の永井誠一(まこと)さんから、1枚のしおりを頂戴した。そこには、「被爆地長崎に足跡を残したあなた、これからのその足で世界を歩いてください。」と書かれていた。
 世界を歩く時、世界中に広めたい数式がある。「6+9=15」。数は世界共通である。足し算は小学校1年生で習う。広島、長崎、終戦記念日、日本の8月は忘れられない。これも「ながいまこと」さんがしおりの裏に書いたこと。
 今日も、11年前と変わらず、長崎には暑い日差しが照らしていた。