福島からスタートした聖火は、栃木、群馬、長野、岐阜、愛知、三重、和歌山、奈良、大阪から四国の徳島、香川、高知、愛媛とまわり、九州の大分、宮崎、鹿児島から沖縄まで南下をした後、再び九州に戻り、熊本、長崎、佐賀、福岡を通って、本州の山口、島根、広島、岡山、鳥取、兵庫、京都を経て、滋賀に引き継がれた。
滋賀県は、京都から電車で10分程にありながら、意外と人が大勢行かない所である。筆者も実は、1970年の大坂万博の時に、比叡山延暦寺根本中堂をお参りしてから、その後、1回くらい行ったか行かないかの記憶しかない。修学旅行等も含め京都に行った数とは桁違いである。
でも、滋賀県には、日本地図で見ても明らかな全国一の大きい湖がある。琵琶湖という名前も、その風景同様、美しい。まるで琵琶の音色が聞こえてきそうで、素敵なおとぎ話の世界に引き込まれそうだ。天女が湖岸で琵琶を奏でる姿が目に浮かぶ。
滋賀の人達は、コロナにも雨にも負けず、聖火をつないだ。その様子は以下のリンクでご覧頂ける。
琵琶湖唯一の有人島支える看護師「何が必要なのか見続けたい」滋賀県1日目 東京2020オリンピック聖火リレーデイリーレポート (olympics.com)
日本のサブカル広めるコスプレパフォーマー「みんなまた違う希望に向かっていると思う」 滋賀県2日目 東京2020オリンピック聖火リレーデイリーレポート (olympics.com)
聖火ランナーの方々のインタビューを聞いていると、多くの方々が、この聖火を繋いだ出来事を、一つの自らの人生の節目のようなものにしていることに気づかされる。それは、家族、同僚、お世話になった方々への感謝だったり、自分がやってきた仕事、活動への思いだったり、これから挑戦する新しい事への希望だったり…。
そして、走りながら、聖火を繋ぎながら、一人ひとりが感じていたのが、人とのつながり、人との絆。それも、家族や知り合いのみならず、見知らぬ人も応援してくれた、初めて会った人と会話して聖火をつないだ、とか、見えない糸で一瞬でしかないかもしれないご縁に感謝して、それを大切にしていることである。
私達の毎日の生活もそうなのかもしれない。目の前にいる人に「有難う」という他に、見えないご先祖様や、この食事を頂けるために農業や漁業に携わっている人達等々、多くの方々のお世話になって生きているのである。だから、聖火ランナーの皆さんのように、誰にでも、元気な笑顔を振る向けられるようになりたいものである。
下記は、昨年(2020年)秋、知り合いが撮影した琵琶湖から朝日が昇るところ。
日いづる国、滋賀の琵琶湖から平和と繁栄を祈りたい。
昨今、自ら旗を振り、思考の妥当性を国民に訴えようとする某新聞に加え、党の立場を明確にするためだけに波風を起こそうとする立憲民主党を含め、財界においても、オリンピック開催を断念するべきだという論調がはびこり始めている。
返信削除更には、自動録音による世論調査を隠れ蓑とし、オリンピック開催前に衆議院選挙を実施しようと訴える暴挙に加担する動きもある。
民主主義を信奉するアメリカやイギリスがオリンピック開催を支持するか否かはさておき、台湾をWTOから締め出すことに成功した某軍事大国は、事態を静観した上で、その去就を決めようとしているのは明らかだ。
この際、日本人が問うべきことは何なのか。
コロナ禍においても、何とかオリンピック開催に漕ぎ着け、成功裏に終わらせれば、これこそが、参加国すべてを含め、英知を結集し、国際的行事を全うするということになるのではないのか。これは単に日本が世界に対し、何かを成し遂げるということではない。日本が世界各国と協調し、大義を果たすということだ。
一旦決めた志を捨てることはいつでもできる。誰でもできる。何故なら、言い訳は十指に余るほどあるからだ。先ず国難を排することが、国民を守ることだと宣(のたま)う輩もいるだろう。それはそれで心地よい響きがある。似非評論家に加担すれば、そういう結論になり、危機に対し、目を背けることができる。
一方、日本国内で何故コロナ禍が収まらないのかという現実に対し、某新聞や立民や財界の一部は、「仕方がないじゃないか」と言って、事を済ませようとする。ここで国民性の軟弱さを指摘することにどんな意味が、否、どんな意義があるのか。
失敗を恐れる学者は1,000の実験をすれば道が拓けるとは考えず、一般的に想定される10程度の治験で、最終的な目標に到達すること諦めるのか。北里柴三郎や野口英世はお茶を濁して物事を済まそうとしたのではない。
再度問う。今日本人が問うべきことは、政府が何をしてくれるかではなく、日本と世界のために、どうすればオリンピックを成功裏に終わらせるか、なのだ。
たかがスポーツ、大袈裟な運動競技だと見做し、現実から逃避すれば、その禍根は某国が望むところになる。
菅首相には、日本国民を含め、世界各国の首脳に対し、今回のオリンピックが体現することを声高に訴えてほしい。
スポーツ界を除いても、文化を発信しようとしている人たちさえ、すべてをオンラインで済まさざるを得なくなっている。これを時代の趨勢だと捉えるべきではない。実際に目で見て、声を交わし、皆が切磋琢磨することを忘れてはならない。
繰り返すが、場当たり的な対応は誰でもできる。一歩前に進むためには何をどうすればいいのかを真剣に考えてもらいたい