昨日、バレンタイン・デー2月14日に、読売新聞が、1面大きく使って、隈研吾さんの語る「東京ミライ」を掲載した。
隈研吾さんが述べたことに、大変共感した。
新国立競技場に関して、「高さ50メートル以下に抑え、温かみを感じてもらえるよう軒庇に木材を使う工夫をした。」と書かれていた。何故、高さを抑えたのだろうか。高さがもたらす重圧感、圧迫感を抑えようとしたのだろうか。「温かみ」という言葉が響いた。そこには、人々の姿、笑顔がある。木は、確かに、石より温かい感じがする。風を通すし、水も浸み込む。自然と溶け込む。火で燃えてしまうほど温かい存在だ。「温かみ」という言葉には、「ぬくもり」も感じる。
私は、「ぬくもり」とか「匙加減」という言葉は、AI(人工知能)やロボットの時代が来ても、社会で生き残る職業の、鍵となる言葉の1つだと思っている。癒しの人形やロボットが出来ても、肌触りの良いタオルや布団が出来ても、「お母さんのぬくもり」とか「温かさ」というものは、個人の記憶や感覚に根差していて、機械化できない。マニュアルで温度や量や時間は決めてデータ化出来ても、一流シェフの最後の「味見」による、ほんのひとつまみの塩を入れる作業は、なかなか真似できない。
もしかしたら、隈さんのおっさhる「経済性とは別の豊かさの尺度」とは、こんなところにあるのかもしれない。
隈さんは、「コミュニティーの役割がすごく重要」と言い、街には、だた「住む」のではなく、そこには、「生活」や「暮らし」があると言う。すなわち、人が行き来し、会話し、息づいている。そんな風景を、きっと、隈研吾さんは大切にされるのだろう。
そういえば、隈研吾さん、オーストラリアの人工的首都、キャンベラを訪れた時に、アボリジニ・エンバシーという、原住民のいるような「路地裏」を歩いたそうだ。それから、新年は、ラオスの山奥でサウナに入って迎えたと言う。自然や「人々の営み」を楽しんでいらっしゃるような印象を受ける。
「都市開発」というと、古いものや森林などの自然を破壊して、新しいもの、コンクリートを積み上げて行く、冷たいイメージがあったが、上記の記事からは、人間味が溢れていた。
そこで、「コミュニティーの役割がすごく重要」と語った隈研吾さんに、実は、新国立競技場の建設によって、その「コミュニティー」を失った人達がいることを、忘れないでいて頂きたい。私も忘れかけていた時に、偶然出会った「自転車おじいさん」。小さい時から絵画館前で遊んでいらしたこと、家族皆で草野球を楽しんだ思い出、1964年のオリンピックの時も、そして今回も2回も立ち退きに合いながらも、他人を恨んだりせずに、。笑顔で、2回もインタビュに応じて下さった。こんな出会いも、『オリンピックと日本人の心』(内外出版、2018年)を書いたからできたこと。
いつか、隈研吾さんに、この「自転車おじいさん」に会って頂きたいと密かに思っている。
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