2018年10月24日水曜日

日日是好日

日日是好日ーー毎日が良い日、そうなるように、毎日を大切に
一期一会ーー一時一時を大切に、人との出会い、物や自然との出会い、その瞬間

お茶の先生や気功・武道の先生のお薦めもあり、本年75歳で他界された樹木希林さんを偲びつつ、映画『日日是好日』を観に行った。映画館に足を運んだのは久しぶりのこと。

高校の時、留学前にお茶を習ったことはあったが、全て忘れていた。50を過ぎて、半世紀を生きてくると、人生に対する向き合い方が変わってきた。日本人に心からなりたくて、改めて始めたお茶のお稽古。その心も学べるかと思って映画を見に行った。

黒木華が演じる主人公。真面目で努力家で、理屈っぽいけど、不器用でおっちょこちょい。人生で躓くことも多いけれど、歌ったり踊ったり、海が好き。自分の性格や人生と似ていて、重ねて見ていると、時々涙がこぼれた。

雨の日は雨の音を聴く。晴れの日は日照りの太陽を感じる。そんな異なる毎日の自然の中で日本人は、四季を楽しみ、自然を慈しみ生きてきた。だから、自然災害が続く日本列島の各地で生活しながらも生き延びてきた。自然を克服するより、自然と共存することを選択した。

華道の先生は、「花のことは花に聞きなさい。」とおっしゃる。生け方に困ったら、頭や理論ではなく、自分の目の前にある花と対話しなさい、ということだ。私は、ある時、柱にぶつかって、思わず、「失礼。ごめんなさい。」と言っていた。はたから見たら、変な人だと思ったかもしれない。人に対してならともかく、柱に対して謝るなんて。でも、おそらく、「花に聞いてみる」姿勢と共通する点があると思う。花も話すわけではない。しかし、目の前にあるものと対話することで、そこに「一期一会」が生まれる。
路傍の石にも、一寸の虫にも、野の草にも価値を見出す日本人。八百頭の神様は、どこに潜んでいるか分からない。生きとし生けるものを大切にするのが日本の心……。

樹木希林さんが亡くなった後に公開された『日日是好日』。茶の湯の先生としての樹木希林さんの最期の作品は、たくさんのことを教え、感じさせてくれた。脚本家も監督も、心ある方だと思う。日本の日常になる家族、人との係わり、人生の浮き沈み、見る人、それぞれに語りかける作品である。そこには、命の大切さも語られている。
今会っている人とは、明日会えなくなるかもしれない。戦国時代の厳しい社会、時代から生まれた茶の湯。だから、一期一会を大切にすると言う。その心は、現代でも変わらない。どんなに科学技術が発達しても、人の命ははかない。病気、事故、災害、テロ、原因はなんであれ、人の命は永遠ではない。でも、人が残してくれたものは、引き継がれて行く。
樹木希林さんは、75歳という、日本人女性の平均寿命頼よりもお早く亡くなられた。こうしてみると、大切なのは、何年生きたかではなく、どう生きたかなのだと思う。丁度2年前、母のように私のことを「くにこちゃん」と気にかけて下さった尊敬する女性が、やはり75歳で亡くなられた。ご自身が大病をされながらも、最期まで人のことを気にされ、人に尽くされた方だった。第一にその方に渡したかったのが、私が今年初めて出した単著『オリンピックと日本人の心』である。
この本を出して後、気になって、隈研吾さんの『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』を読んだ。その最後は、「だから木を使うのである。たくさん、たくさん、木を使うのである。」で締めくくられていた。
あぅ、不思議とつながった。樹木希林さんのお名前。たくさん、たくさん、木が使われている。そして、その木に囲まれているのが、希望の希。『オリンピックと日本人の心』の最後で私が掲げた拙歌が、本年4月に詠んだ「いち早く靖國に咲く五輪の花 未来に託す希望のごとし」だった。ここにも「希望」があった。本日(10月23日)に観た『日日是好日』でも、主人公の父は満開の桜の下で他界した。「寂しい桜になってしまったわねえ。」と縁側に座って主人公に話しかけるお茶の先生の樹木希林さん。そして、「桜の花のように、パッと散ってしまいました。」と答える教え子の黒木華さん。しっとりとした会話に日本人の美意識を感じた。
『オリンピックと日本人の心』は、「命」と「心」の本、とあとがきしたが、『日日是好日』は、「命」と「心」の映画だと思った。
樹木希林さん始め、多くの方の命と心に合掌したい。


2018年10月12日金曜日

10月10日体育の日(オリンピック散歩道)

 54年前の今日、1964年10月10日、アジア初のオリンピックが東京で昭和天皇の開会宣言とともに始まった。本年6月23日、オリンピック・デーに、初めての単著『オリンピックと日本人の心』を上梓した私、鈴木くにこは、その原点に触れようと、当時と同じような秋空に恵まれた10月10日の午後、神宮外苑を目指した。

 スタート地点は、南青山の隈研吾建築都市設計事務所。2020年の東京オリンピックに向けて来年11月に完成予定の新国立競技場を設計した所。その息吹を感じたかった。大通りから一歩入った静かな所に、看板を掲げることもなくシンプルに存在していた。一階が竹の小道のある日本料理だが、2階以上は明るく開放的なオフィス。
 偶然のことだが、ここを拠点にしたのには、もう一つ意味があった。私が『オリンピックと日本人の心』を執筆する際に、「花は足で生けるのよ。」と教えてくれた友人が、すぐ近くで長年、茶の湯のお稽古をしていたからだ。そのお茶の先生は、つい先日、9月末に最期まで現役で94歳で他界された。友人のお茶会に招かれた時に、2回ほどお目にかかったことがあるが、とてもお優しい先生だった。

 伝統的日本文化と新しい建築、1964年と2020年、そんな二つの時間と空間を融合させながら、10月10日の青山のオリンピック散歩は始まった。
 青山通りから神宮外苑に向かう並木道に曲がる所で、聖徳記念絵画館を真正面に見て、私は、自然と頭を下げていた。何となく会釈してから、並木道を歩き始めた。東京都のシンボルマークである銀杏の葉が地面に落ち始めていて、きれいな可愛い模様を作っていた。まるで、2年後の東京オリンピックの道しるべを示すように。秋の午後の光に照らされて、緑のアーチの並木道は、昔見た印象派のピサロの絵を思い出させた。1894年にフランスから始まった近代オリンピック、そして今年は日仏国交160周年、その間のジャポニズムや日仏の交流の歴史、そんな中でのフランス絵画の印象派の光が、今日21世紀の秋の東京の穏やかな風景と重なるのが面白い。



 54年前の原点を求めて、自然の光と空気に触れながら、歩みを進めた。車の音が気になりながらも、ふっと公園の緑の向うに、白っぽい建造物が見えてきた。あれが新国立競技場だろうか…。何だか隠れた宝物を見つけたようでわくわくした。まずは、小さな憩いの公園に入って、緑の中から眺めた。
そして、改めて、もっと近づいてみた。

 目の前に現れた新国立競技場は、巨大ながらも重圧感や圧迫感がなかった。何かを語りかけるようでもあった。
 隈研吾氏が新国立競技場について語る記事を幾つか読んだ。新国立競技場には、松や杉の木材が使用されると言う。「松」で、思い出されるのが、オリンピックのエンブレムが「市松文様」。そして、2020年の東京復興五輪の式典演出の統括を務める野村萬斎氏らが舞う能舞台には、いつも背景に「松」が描かれている。そして私が忘れられないのが、岩手県陸前高田の希望の「一本松」。2011年の巨大津波の中でも、1本のみがピーンと空高く生き残っていた。今年6月末、岩手県庁を訪ねた時、職員の方の名刺に「一本松」の写真が載っていて、7年経っても心にジーンと浸みた。
新国立競技場では、47都道府県の杉の木を使うと聞いた。各地から集めるのは大変だろうが、何て素敵なんだろうと思った。新国立競技場を、北海道から沖縄までの、みんなの拠り所にする、全国でおもてなしをして世界の人々をお迎えする、そして多様な地域が個性を持ちながら新国立競技場で一体化、和(輪)を成す、そんなコンセプトが浮かび上がって来る。47都道府県というと、皇居の周りをマラソンしたりお散歩したりするとわかるが、47都道府県の花が地面に描かれ、それが皇居をぐるっと取り囲んでいる。また、国会議事堂公園にも、確か47都道府県の木が植えられている。皇居と国会議事堂と新国立競技場が、47都道府県で結ばれる。東京に全国がある、全国が東京に集まる、だから東京オリンピックは、日本全国のオリンピック。
 隈研吾著『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』の最後は、「たくさん、たくさん、木を使うのである。」と締めくくられている。たくさんの木材を思う時、私は子供と共に参加した森林体験を思い出した。山に入り、ヘルメットに軍手姿で、木こりのように木を伐採した経験だ。その時のお話で印象に残っているのが、「魚は一日漁に出れば釣れる、田畑は半年から一年で実がなる、でも木が使えるようになるには何十年もかかる。」ということ。農林水産業の中でも、林業が特に難しいのは、自分がやった成果が生きているうちに見られるかさえわからないこと。日本では林業が衰退しつつあると聞くが、それでも全国では、植樹祭が毎年開催され、両陛下がご臨席される。今年の植樹祭は福島県で開催された。被災地のことを常に気にかけていらっしゃる両陛下の御心は特別である。
 もう一つ、伐採をしていて気づいたこと。伐採というのは、たくさん育ちすぎた木を幾つか切って、木をまぶし、より良く日が当たるようにすることである。木を切ってしまうことをもったいないとは思わず、木を切ることで、より良く木を育てるのだ。このやり方は、日本の様々な文化とも共通すると思った。生け花をしていると、空間を大事にするために余分な葉や花を取ってしまう。そうすることで、花はより引き立つ。かつて千利休が、庭先のよく咲いた朝顔を一輪を残して全部取ってしまってお客様を迎えたことは有名な話である。日本画でも書でも空間、白紙の部分を大切にする。お能でも、面の表情や静かなしぐさは、全てを表現したり言い切ったりせずに、見ている人の想像に任せると言う。西洋のフラワー・アレンジメントはたくさんの花を飾って豪華にし、西洋画は、白いキャンパスを埋め尽くす。木の空間は、光だけではない、風も通す。水も通す。木を伐りすぎてしまうと、水は流れ洪水等の被害を及ぼすが、適度の木は、雨水を地面に浸透させる。
 今年は、関西の地震、西日本の豪雨、台風21号、そして北海道地震と、夏の酷暑も挟んで、日本が災害大国であることを、まざまざと感じさせられた。温暖化の気候変動によることもあるが、日本の歴史を見ると、何百年も前から、同様なことが、噴火も含めて、起こっている。そんな自然の驚異にさらされながらも、日本人は自然と共存して生きてきた。その中から生まれた知恵が「和を以て尊し」ではないかと最近思った。厳しい自然の中では、人間は助け合って行かなければ生き残れない。争っていては生き延びれない。
 平和の祭典としてもオリンピック。古代ギリシアでは国家(ポリス)同士の争いが絶えなかった。その争いも、オリンピック開催中は、停戦した。

 木の伐採は光と風を通すと上記したが、人間は光と空気の他、水がなければ生きていけない。そして、川のそばに古代文明が発達したように、人類の文明は水と共に発展してきた。新国立競技場の建設にあたり、隈研吾氏は、環境の大切さを説き、1964年に埋もれてしまった渋谷川を再現することに触れていた。今日10月10日にそれを確認することはできなかったが、水を取り戻すことは、生活環境に潤いを与えることでもある。そして、水の尊さを誰よりもお分かりなのが、水をテーマにご研究をなされている皇太子殿下であられよう。その皇太子殿下が、2年後には、新天皇陛下として、ここで東京オリンピックの開会宣言をされるのである。

 新国立競技場を眺めた後、明治維新から150周年、聖徳記念絵画館に赴くため、道を折れた。そこで、目に入ったのが、何と日の丸の旗。オリンピックで日本人がメダリストになった時に、会場に高く掲げられるように、大空に高くはためいていた。何だか、オリンピックで日本を応援してくれているような気分になり、嬉しさがこみ上げた。
そんなワクワクしていた私に、向うから自転車に乗ったおじさんが声をかけてきた。元気一杯に、「私は小さい時から、ずっとこの近くに住んでいて、よくここで遊びました。その噴水の水が冬になると凍って、割って遊んだ。東京空襲の後、疎開から戻ってきたら、そこいらに焼夷弾が突き刺さっていた。オリンピック毎に引っ越しさせられた。前回と今回の2回。」と話して下さった。お幾つか尋ねると、85歳だとおっしゃる。とにかくお元気で、今は、小学校等で、大繩を回して子供達に外で遊ぶことを教えたり、戦争体験を語ったりしているそうだ。
 いよいよ10月10日の青山散歩の最終目的の絵画館。

正面玄関を真正面に見て、階段を上ろうと下を見て、びっくりした。真下に日の丸が。あっ、やっぱり今日はオリンピックのの日だったんだ。

 
 

2018年10月5日金曜日

没後50年、3つの藤田嗣治展

本年2018年は、藤田嗣治が1968年1月29日に亡くなって丁度50年になる。
今もFoujitaの作品は、世界中で慕われている。
今年、私は、3つの藤田嗣治展に行った。

1つ目は、7月にパリのマイヨール美術館で開催されたものだ。パリ7区のお洒落なサンジェルマン地区の住宅街の一角にある小さな美術館。通常は彫刻家マイヨールの美術館である。この展覧会を知ったのは、あるニュースで、フランスの公共バスに藤田の自画像とともに広告が出ていたのを見たからである。
館内では、静かに作品に見入るフランス人が絶えなかった。教養がありどこか良さげなBCBG風のフランス人が多かった。



















2つ目は、7月19日、パリから帰国した日に訪れた銀座のギャラリーためながの藤田嗣治展である。20日からの会期の前のレセプションで、藤田の多様な作品を鑑賞することができた。ギャラリーの創設者の為永清司会長は、藤田と親交があったと言う。そして、おそらく藤田に魅了したのだろう。二代目の為永清嗣社長の名前からも、それが想像できる。
3つ目は、昨日10月3日に訪れた上野の東京都美術館での藤田嗣治展。若冲展の時と同じ場所で、同様の混雑だった。平日の朝でも、各地から人が来ていた。美術館や音楽会、歌舞伎等、最近気づい事たが、文化にお金を使うのは女性が圧倒的に多い気がした。美術、すなわち美しい物への感情がより敏感なのかもしれない。そして、それらにお金を使うことを良しとする。
 駅で見つけた都美術館の藤田嗣治展の広告の文章が目に留まった。
「私は世界に日本人として行きたいと願う。」
藤田の言葉だろうか。私も全く同じ心境である。
私だけではない。子供達や教え子達、若い人達に、日本人の心と日本人としての気概と誇りをもって世界に羽ばたいてほしいと思う。どんな分野でもいいから一流を目指してほしい。
秋が少しずつ深まって行く上野公園の青空の下、藤田は私に人生の指針を示してくれたような気がした。

2018年10月3日水曜日

宇宙外交について







2018年9月19日、東京大学の安田講堂に、日仏国交160周年を記念して開催された公開シンポジウム「共同宇宙探査宇宙飛行士の視点」を聞きに行った。
 フランスからは、トマ・ペスケ宇宙飛行士が参加した。ペスケ飛行士は、197日間(201611月~20176月)ISS(国際宇宙ステーション)に滞在した。
 同期で、同様にISSに滞在した日本人として、金井宣茂宇宙飛行士が話に加わった。彼はISSに168日(201712月~20186月)滞在し、今年、地球に帰還したばかりだ。地球に帰還してからは、身体の平衡感覚を取り戻す、すなわち地球の環境に適応するためのリハビリに励んだと言う。
 日仏2人の対談の司会役を大西卓哉宇宙飛行士がされた。彼らは、2009年に宇宙飛行士に選出された同期ということだ。


現在まで、日本の宇宙飛行士は11人、フランスの宇宙飛行士は10人いる。これは世界的には多い方である。三桁の宇宙飛行士を輩出しているのはアメリカ)(300人以上)とロシア(100人以上)のみである。
詳しくは、fanfun.jaxa.jp/faq/detail/173.htmlにある。それによると、日本は、米露についで宇宙飛行士を輩出している国となる。



これまでに宇宙に行った人※1は、556人※2で、国別に表したものを以下に示します。
※1:宇宙へ行った人とは、高度100kmを越えたことを意味し、弾道飛行を含みます。
※2:同一の人物が2回以上飛行した場合は重複して数えていません。 また、宇宙旅行者を含みます。
これまでに宇宙に行った人の数(2018年6月7日現在)

国名
男性女性合計
アメリカ29547342
ロシア(旧ソ連)1174121
日本10212
ドイツ11011
フランス9110
中国8210
カナダ729
イタリア617
ブルガリア202
オランダ202
ベルギー202
イギリス112
ハンガリー202
カザフスタン101
インド101
スペイン101
スイス101
オーストリア101
ウクライナ101
チェコ101
ポーランド101
ルーマニア101
スロバキア101
ベトナム101
モンゴル101
メキシコ101
キューバ101
サウジアラビア101
シリア101
アフガニスタン101
南アフリカ101
イスラエル101
ブラジル101
スウェーデン101
マレーシア101
韓国011
デンマーク101
合計49561556
延べ人数※31,258
※3:「延べ人数」は、同一の人物が複数回飛行した場合もそれぞれ1人として数え合計した人数です。1人で4回飛行した場合は延べ人数は4人になります。
【出典】NASDA NOTE
NASA Human Space Flight ~History
 宇宙飛行士達のお話を聞き、本当に、宇宙飛行士達は、並大抵に人々ではないと、尊敬の念を大きくした。精神力、体力、気力、人格そして国際性と、それらを兼ね備えた人々である。もちろん、努力家で、優秀で、決して諦めない心を有し、情熱的でありながら、冷静沈着である。
 日本人のフランス人も、英語はもちろんだが、ISSに乗り込むのに、ロシア語も徹底的に勉強する。ISS内では、様々な実験をする。大変忙しい毎日である。
 初日から数日間は慣れずに天井に頭をぶつけるなどするが、とにかく最初の興奮は、「夢の中の夢にいるようだった。」とペスケ宇宙飛行士は述べた。

  金井宇宙飛行士は、もともと防衛医科大学出身の自衛官の医師だった。お医者様ということもあって、健康長寿のヒントは宇宙にある。というテーマで、アルツハイマー型認知症や糖尿病の治療薬の実験も行った。
金井宇宙飛行士は、日本人4人目となる(土井、野口、星出各宇宙飛行士に次ぐ)船外活動を行った宇宙飛行士である。野口聡一宇宙飛行士は、来年、再びISSに飛び立つ予定だが、彼は、かつて自らの船外活動について、命を賭けて行ったことを述べた。宇宙服を着ていると言っても、船外は未知の世界。その宇宙空間で人間が生きていられる保証は何もない。ISSの扉を二つ開け閉めしながら、死への覚悟もあったと言う。
だからだろう。金井飛行士は、シンポジウムの中で、しきりに、「先輩、先人達がやってきたことに感謝し、それを引き継ぎ、更に発展させたい。」との言葉である。未知への世界へ飛び込んで行った先輩宇宙飛行士への賛辞である。

金井飛行士は、国連宇宙部との連携協力(KiboCUBE)第1として、ケニア、トルコ、コスタリカの超小型衛星の放出も行った。また、アジア諸国から募集した実験もしている。こうして、アジア・アフリカ諸国の宇宙開発や宇宙への参画にも貢献している。


通信面では、ISSから2回国際宇宙探査フォーラムに参加したり日露首脳会談で交信したりもした。まさに、「宇宙外交」が、日露、日米、日仏等、また多国間でも繰り広げられているのである。

安全保障面では、サイバーや宇宙空間での防衛が課題になっているが、宇宙飛行士達が行っている「宇宙外交」は、国際協力の場であり、平和の萌芽である。

宇宙が、対立から協調、協力への場となるなることを願って止まない。


宇宙に関わる国際チームには、米国人、ロシア人、日本人、ドイツ人、フランス人、カナダ人、イタリア人、英国人等が加わっている。こうして見ると、G7(ロシアを入れるとG8)諸国である。


「一流国家」とは何か、を考える時、それは(国際的に)一流の人をどれだけ輩出できるかではないだろうかと、素晴らしい宇宙飛行士の方々のお話を聞きながら思った。


ISS内では、生物、化学、物理、医療等の分野の実験が多くなされる。今年も、ノーベル生物学・医学賞に、京都大学の本庶特別教授が選出された。日本人として、とても喜ばしく思った。


宇宙でも、これら科学の基礎研究でも、未知の世界での発見を通じて、「人類」に貢献しよとする人々の誠意や熱意が感じ取れる。

大きなミッション(使命)を果たし成功させた宇宙飛行士達に「おめでとう」を言いたい。そして、「有難う。さらに、これからも「御気を付けて、宇宙の旅へ。」。

Bon Voyage!

月の明るい秋の夜長に。

*下記は、9月24日に放送された番組。上記した宇宙外交のお話をしました。