このブログを検索

2019年1月30日水曜日

皇太子殿下のフランス行啓の足跡を訪ねて(1)

 2018年(平成30年)9月7日~15日、皇太子殿下は、日仏国交160周年を記念して、フランスに行啓された。それから2か月後の11月7日~16日、私は期せずして、同じ様な旅程でフランスを訪ねていた。当初の私の訪仏目的は、11月11日の第一次世界大戦の終結100周年の国際記念式典をパリで見ることだった。100年に一度の機会、それも日本が戦勝国の一員として、そして五大国の1つとして、国際社会で認められた歴史を、改めて感じ学びたいと思ったからだ。それも、その年が、日仏国交160周年、明治維新150周年とも重なる。日米、日英、日仏等と修好通商条約を結び、門戸を外へ開放して行く中で、明治維新が成し遂げられ、それから、日清戦争(1894年~95年)、日露戦争(1904年~1905年)を経て、日本は第一次世界大戦(1914年~1918年)に参戦した。
(第一次世界大戦終結100周年記念式典に関しては、下記ブログを参照下さい。

https://kunikosuzuki.blogspot.com/2018/12/100.html)

 2018年11月7日、私は、フランスの第2の都市リヨン、サンテグジュペリ空港に降り立った。「星の王子様」(le Petit Prince)の国、その故郷から、日本の王子様、皇太子殿下の2か月前の足跡を辿る旅は始まった。雨降るリヨンは、夜の街明かりに照らされてきらきらと輝いていて、まるでそこら中に星の王子様が宿るようだった。















広場近くの星の王子様とサンテグジュペリの銅像


さて、皇太子殿下は、何故、今回、リヨンからフランス行啓を始めたのだろうか。そのヒントは、皇太子殿下が日本を発つ前の9月5日に行った記者会見のお言葉の中にある。
皇太子殿下は、次のようにおっしゃられた。

2014年に世界遺産に登録された富岡製糸場は,リヨンの絹工場で働いていた技師,ポール・ブリューナ氏を始めとするフランスの技師や職人の指導により建設されたものであり,そこでの工員への技術移転がその後の日本の産業発展を力強く支えたことはよく知られていると思います。また,横須賀の造船所建設を指揮したフランソワ・レオンス・ヴェルニー氏は,単に造船所を建設し,艦船の建造や修復に携わっただけではなく,日本人技師の育成にも取り組み,我が国における理工系教育の発展にも大きな役割を果たしたとされています。

また、9月15日のフランスご訪問を終えられてのご感想の中でも、「19世紀半ばに蚕と生糸から始まった日仏交流の絆」と皇太子殿下は述べられている。

 11月8日、私は、皇太子殿下がご訪問されたというリヨンの織物博物館に立ち寄った。
織物博物館の方々に、皇太子殿下についての印象を伺うと、「とても丁寧な方だった。」「とても親切。」「光栄なことだった。」等、話してくれた。
 皇太子殿下は、特に、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌ妃のドレスをじっくりご覧になっていたとも現地で聞いた。
 私が、リヨンの織物博物館を訪問したことにはもう一つの理由があった。それは、今日でも日本の着物文化の1つとして誇る西陣織の発展に、フランスのジャガード織機が貢献したと聞いていたので、それを確かめてみたかったからだ。1階の奥にジャガード織機を見つけた時は、日仏交流の証を発見したような気分で、とても嬉しかった。そして、博物館の2階に上がると、日本の着物や能装束を見つけた。西陣の織元、山口安次郎氏が、かつてジャガード織機の故郷のリヨンに御礼の気持ちを込めて寄贈したものと聞いていた。
 皇太子殿下も、日仏の絹の交流を、こんな風にお確かめになりお感じになられたのだろうか。

ジョゼフィーヌのドレス
織物博物館の入口


ジャガード織機

山口安次郎作・能装束

  
ジャガード織機が西陣織の発展を助けたと上記したが、逆に、日本がフランスの繊維産業を助けた歴史もある。フランスの蚕が病気になり、絶滅しそうになり困った時に、日本からフランスに蚕卵紙が贈られ、フランスの織物産業が継続できたということである。
 日本とフランスの交流は相互的であり、持ちつ持たれつの関係だった。
 そんな日仏交流の歴史は、生糸や技術ばかりではない。美食のフランスと日本だからこその話もある。続きは、明日以降、お楽しみに!





0 件のコメント:

コメントを投稿