その日から75年が経った。その日を体験した人はもはや少数派である。が、世界の人々が知っている「広島」(Hiroshima)。人類初の原子力爆弾が投下され、大勢の一般市民が、未知の苦しみに堪えながら、命を落としたり、悲しい人生を送たりすることになった。
広島には何度も訪れたことがある。記憶に残るのは、1980年代、学生の時、まだ平和記念資料館が建て替えられる前の旧館で(昭和の趣がありシンプルそのままで、より当時の雰囲気を醸し出していた)、展示の最後に見た階段に焼け映った人影が印象的で、いつまでも脳裏に残っている。その人影が、何かをいつまでも訴えているようだった。
その日は、2人のイタリア人の学生の友人を案内したのだが、広島平和記念公園に出ると、すれ違った子供たちは、「あ、アメリカ人だ。」等と言って元気に通りすぎる。友人のイタリア人は、アメリカ人に間違えられることには慣れていたが、それを聞いて私に質問してきた。「なぜ、日本人は、アメリカ人に原爆を落とされても、アメリカ人に怒ったり恨んだり責めたりしないの?」と。咄嗟の友人からの質問に、私は何か答えなければいけないと思い、「うーん、日本には「水に流す」という言葉があるし、戦後の冷戦でアメリカには復興支援等で助けてもらったし……。」等、一応の説明はしたが、いまだに私自身、実はよくわかっていない。
それから、1997年か1998年、OL時代、(株)博報堂内に設置されていた岡崎研究所(岡崎久彦所長、小川彰事務局長)の「日米韓、朝鮮半島プロジェクト」で、韓国の元外務大臣、元海軍士官、大学教授等(後の大臣や大使)とともに、広島・宮島・呉・江田島を訪問した。広島平和記念公園を一緒に散歩しながら、朝鮮半島出身者の追悼記念碑が、公園の一歩外にあるのに気づかされた。その夜、池田行彦元外相(広島選挙区)らと懇談し、数年後、同記念碑は公園内に移設される。
21世紀に入り、まだ保育園に通う子供たちを連れて、広島を旅行した。平和記念公園の折り鶴、平和の鐘等に触れあいながら、どれくらい分かるか知らないが平和記念資料館も訪問した。特に何を言うこともなくじっと展示を見て、公園で遊んで帰った4歳前後の子供たち。帰京後、車のチャイルド・シートの上から運転席の祖父に向かって興奮したように話す。「知ってる、大パパ(おじいさんのことをこう呼んでいた)、原爆(げんばく)ってこわいんだよ。だって、レンガのお家まで壊してしまう(恐らく「3匹のこぶた」のイメージ)んだよ。それに、三輪車も車輪が取れてぐちゃぐちゃ。」。「お弁当箱も焦げていた。」と横からも一人の保育園児も印象を話す。子供たちの目線で原爆の怖さを感じていたことを気づかされた。
30年の時を経て、前出のイタリア人の友人が、2015年、家族を連れて再来日した。自身は旅の疲れと脱水症状で点滴まで必要とする身体だったが、子供たち家族には、広島平和記念資料館を一瞬でも見に行くように奨めた。「百聞は一見に如かず。」駆け足ながら、資料館の展示は彼らの記憶に深く残った。
昨年2019年、G20サミットが大阪で開催された際、EUのドナルド・トゥスク大統領は、来日したら必ず訪問したかったと広島と長崎を多忙なスケジュールに入れた。その時、世界の首脳たちが広島と長崎を訪問し、人類が手遅れにならないように軍縮すべきだと述べていいる(以下、参照)。
トゥスク大統領はポーランド出身である。日本とポーランドには、「負の世界遺産」として人類史上忘れてはならない記憶遺産として「アウシュビッツ強制収容所」と「広島原爆ドーム」が登録されている。
梅雨が明けると、けたたましいほどに元気な蝉の声であるが、今日の蝉は、青空に響きながらも、どことなく寂しげに聞こえる。そんな日が15日まで続く。
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