2020年8月15日土曜日

終戦記念日75周年



 本日、2020年(令和2年)8月15日、第二次世界大戦の終戦記念日75周年を迎えた。靖國神社には、新型コロナウィルス(武漢肺炎、COVID-19)や猛暑にもかかわらず、例年以上に大勢の方が、朝早くから列をなし、お参りしていた。足を引きづりながらも靖國神社に向かう女性、腰を曲げながら長い列に並ぶお年寄り、短パン・Tシャツ姿の若者、子供を抱きかかえたお父さん等々、それそれが様々な思いで、終戦記念日に九段の杜に参拝に訪れる。靖國神社は昨年(2019年)、明治2年から創建150周年を迎えた。すなわち、そこには、日本の歴史が、75年の倍、150年以上が刻まれているのである。近現代の日本を支えてきた多くの御霊が存在するのである。

 15年前、戦後60周年に、筆者が書いた論考がある。今でも変わらないことがほとんどである。以下に、そのまま掲載する、一読頂けたら幸いである。

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史の学びから平和を築く一若き日の経験から一
2005年8月
鈴木くにこ
はじめに
本日2005年8月15日、日本は、第二次世界大戦の終戦から、60周年を迎えた。例年通り、日本武道館では天皇、皇后両陛下ご臨席のもと、全国戦没者追悼式が挙行された。小泉総理は、千鳥が測の戦没者墓苑に献花を行ない、大勢の人々(20万人以上)が靖国神社に参拝した。この日テレビでは、高校生にインタビューする様子が放映された。高校生たちは、「戦争はよくないことなので、もうしないでほしい」とか「今、平和でよかった。これが続けばいい」という発言をしていた。とても素直な感情だと思う。そして、筆者は、自分の高校生時代に、ある教師から言われた言葉集を思い出していた。「平和を願うだけでなく、平和を築く人になりなさい」と。フランスの高校への留学が決まった筆者への、酸(はなむけ)の言葉だった。現在、教科書を含む歴史間題が国内外で大きく取り上げられている。60年目の終戦記念日も、このことを考えざるを得ない心境になった。そんな時、思い出すのが、筆者がフランスで受けた歴史教育である。当時のことを振り返りながら、今日的識論に一考察を与えるのが、本稿の趣旨である。

フランスの教育より学ぶ
ロータリー青少年交換計画の留学生として、高校3年生の時、一人、渡仏した。今から20年以上前のことである。現地の高校3年に入り、授業の進め方にショックを受けた。日本では、主に、1冊の教科書をもとに、先生が板書をしながら、授業を進める。一方、フランスでは、指定の教科書というのはなく、先生は授業の間、ずっと話をし、その内容を、生徒たちがノートに書き留める。後は、各自が図書館や本屋に行って、様々な書籍、資料に触れ、調べものをしながら、考えを深めて行くのである。そして、試験は、すべて論文形式で行なわれる。教科書を丸暗記すればよいというものはない。間われるのは、論理的思考とフランス語の文章表現である。では具体的に、歴史の授業では、どのようなことを学ぶのか。高校3年次では、第一次世界大戦、第二次世界大戦が主要なテーマとなっていた。両大戦において、フランスはドイツと戦闘を直接交わした国である。その国で、例えば、ヒットラーをどの様に表現するのか。日本では、ヒットラーはナチス党を率いた独裁者として、悪人扱いの勧善懲悪の教育が普通であった。それに対して、フランスでは、ヒットラーという人物、ドイツという国家を、より客観的、冷静に捉えようとする教育がなされていた。一例を挙げれば、ヒットラーが台頭した原因、経緯を記述する論文で、第一次大戦後の戦後処理でドイツ経済が疲弊していたこと、ヒットラーが民主的選挙で選ばれたこと、ヒットラーの生い立ち等を学ぶのである。そこでは、ヒットラーは悪人で非難すべきという教育よりも、様々な条件・環境が整えば、どこにでも存在しうる人物として表現される。歴史の応用で現在をも学んでいるのである。「独仏の和解」というと、両国首脳が手を結びかつての戦場に立った写真を思い出す(後日注:ミッテラン仏大統領とコール独首相のヴェルランでの写真)。こうした表の演出を支えるのが、実は、何十年も続いてきた青少年交流や教育なのではないか。フランスの歴史戦育を回顧しながら、そんなことを思った。

歴史の学び
「賢者は歴史に学ぶ」と言われるが、では、なぜ歴史を学ぶのか。過去の過ちを繰り返さないために歴史を学ぶのだとすれば、過去の過ちの事実を非難するだけでよいのだろうか。誰々が悪いと非難し責任追及をすれば済むのであれば、事は比較的簡単であり、誰にでも可能な教育である。しかし、例えば、社会の様々な事件にもみるように、重要なことは、罪の責任追及ばかりでなく、罪の原因迫求である。「なぜ、そうなってしまったのか」という、「なぜ」の部分を解明しなければ、同様の過ちは繰り返される。そして、その「なぜ」を考え、「なぜ」を探求することこそ、歴史教育に求められているものではないだろうか。そこで指摘したいのが、政策形成過程を研究する重要性である。政府の決定の結果ばかりを迫うのではなく、そこに至る過程や、世論など、政府を取り巻く様々な現象を丹念に見て行く作業である。この点、筆者が出合った良書を紹介しておきたい。第二次世界大戦の日本の敗戦を決定的にし、日本の戦後史にも大きな影響を及ぼしたのが対米開戦であるが、これを題材にした猪瀬直樹著 『昭和16年夏の敗戦』及び 『黒船の世紀』である。前者が、内閣の総力戦研究所の「対米開戦すれば日本は敗戦する」との結論を主題にしたのに対し、後者は、日露戦争後から日米両国で多数出版された「日米未来戦記」が大きなテーマになっている。二つのベクトルに対し、結局、政府は、「日米未来戦記」の方に傾いてしまったのである。

歴史を見る眼
アーノルド・トインピーは、「歴史とはそれをみる立場や目的により初めて歴史が生まれる」と述べた。歴史の共通認識が可能かについて考える時、この言葉はドイツ大統領が戦後50周年の式典で述べたことを想起させる。ドイツの終戦記念日を敗戦とみるか解放とみるか、加害者と被害者、どこでどんな経験をしたか、個々人によって歴史の経験は異なるというものである。従って、事実は一つだとしても、その感じ方、経験に基づく歴史認識というのは、千差万別ということである。歴史を一面的にみるのでなく、複眼的、多層的に見ていく努力が要請される。「一つの尺度(正義)で歴史は書き得るものではない」ということ(平間洋一著 『日英同盟』 PHP新書)にも通じる。もう一つ、歴史を見る眼で重要なことは、「現在の価値観で当時の歴史をみてはならない」ということである(前掲平間著)。例えば、民主主義の価値や植民地主義に関しても、現在の価値観で見ていたら、当時の歴史は見えてこない。2003年度の一年間、筆者は、某私立大学で政治外交史の教鞭をとった。上記の点を、学生にも伝えながら、筆者自身もなるべく、当時の国際環境及び日本国内の政策決定過程等を説明した。試験で「日本が参戦した戦争の具体例を挙げ、その背景、日本の対応、経緯、結果、その後の国際環境について記し、最後に所感を述べよ。」との質問に、ある中国人留学生が、日清戦争を選択し、所感として、次にように記した(原文のまま)。「今こそ、日本と中国は、世界平和維持のために、国際政治に対して、一緒に努カすることが望まれる。歴史の戦争はもう過去だった。私たちは平和の道を一歩一歩歩んでいくことは、非常な努力を要することであると考える。そうしたら政治外交史の授業を受けると良かったと思う。私は最近世界史、外交史などいろいろな事を近くつけるようになると感じる。私は中国の留学生にとって、この授業中の時代の背景、過去の人間が置かれた立場と自分の立場を比較較研究し、その成果を、自分の生き方を決定するための材料にすべきであると考える。」最近の日中間の歴史間題を考える時、この留学生の真拳な気持ちが心を打つ。こういう学生が増えて行けば、アジアにおける歴史教育も、欧州のように、平和を築く基礎になり得るのではないか。そんな、わずかな希望を持った。

おわりに
8月のテレビでは、「戦争はやだ」「平和がいい」と、当たり前の言葉ばかりが目立った。「平和を願う」ことは誰にでも出来る。では、「平和を築く」メッセージや行動はどの程度映し出されたか。なぜ平和は崩れたのか、どうしたら平和を築けるのかという難題にどれだけ真剣に向き合っているのか。自問自答しながら、今年も暑い終戦記念日を過ごした。「歴史の学びから平和を築く」そんな日がアジアにも来ることを切に願っている。欧州共同体に至る困難な道程を想像しながら、いつの日か真の平和のための東アジア共同体が生まれることを夢見ながら。
 2005年8月15日(60回目の終戦記念日に)

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 ここまで読んで頂き、東アジアの国際情勢が、15年前より悪化していることが理解できよう。75年間、日本が平和を築く努力を続けてきても、近隣諸国では、核兵器が増え、武力の威嚇が多くなり、かえって人々が怯えて生活しなければならないことが増えてしまった。
 どうしてか。その原因をきちんと考え、次の行動に生かすことこそ、今後のアジアの平和のために求められていることではないか。


2020年8月9日日曜日

「祈りの長崎」を訪れて

 
11年前(2009年、平成21年)の今日8月9日、私は、「原爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列していた。
 あれから11年、今日(2020年、令和2年8月9日)も、長崎では、あの日から75年目を迎え、人々は、核兵器のない、平和な世界を祈り続ける。
 8月6日投稿の本ブログで、広島には何回も行ったことがあると書いたが、長崎は11年前が初めてだった。現地で手にしたパンフレットに、「怒りの広島、祈りの長崎」と書いてあったのが印象に残っている。以下、当時の報告書に掲載された拙文を、ほぼそのまま引用する。
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三人の長崎人(「永」先人)との出会い
                         2009811日 鈴木くにこ

 200988日(土)、私は、初めて長崎の地に降り立った。海と山とに囲まれた穏やかな風景が私を包むように迎えてくれた。今回の訪問の目的は、「平和への祈り」。東京都千代田区平和使節団の一員として、89日に行われる「被爆64周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列した他、原爆落下中心地、原爆資料館、平和公園、浦上天主堂、城山小学校、山里小学校等の被爆跡地を訪ね、千代田区民の方々が平和への思いを込めて折った千羽鶴を献架し、祈りを捧げた。一つ一つの場所で、多くのことを感じ取った。今回の訪問が私の人生観を変えたと言っても、過言ではない。それぞれ詳細に述べたいが、(今報告書では一人二頁と決まっているので、)ここでは、三人の長崎人との出会いに関して、記すこととする。偶然、お三方とも「永」という漢字が苗字につく。永久平和を願う長崎人(「永」先人)としてご紹介する。

Ⅰ故永井隆先生との出会い
 永井隆先生の生き様は、私の心に大きく響いた。永井隆記念館を訪問する前から、長崎市内の様々な場所に、永井先生の足跡を見ることが出来た。山里小学校内の「あの子らの碑」、そして城山小学校前の「永井坂」。今でも長崎の人々に尊敬されている先生のお姿が感じ取られた。永井隆先生は、長崎医科大学の放射線専門医として白血病を擢った上、長崎への原爆投下の日に被爆し、重傷を負った。にもかかわらず教護隊を組織して負傷者の治療に当たった。病に倒れられてから亡くなるまでの6年間に、床に伏しながら、 『長崎の鐘』を始め15冊以上の書籍を書きあげた。印税は将来の子供たちのために寄付し、自らは二畳の質素な「如己堂」で生涯を閉じる。永井隆先生は、従軍医師として二度、中国にも赴いている。医療に国境はないと、国籍に関係なく治療をしたと言う。永井隆先生の存在は、長崎の方々のみならず、日本人一人一人が誇りに思い、お手本にすべきものであり、また、世界の人々にも訴える普運の尊さがある。なかなか真似の出来ない生き方であるが、そのほんの一部でも見習たいと感じた。永井隆先生の言葉より。「どん底に大地あり」。被操の焼け野原にミミズを見つけた時の生命への喜び。常に希望を失わずに実行する力、そして明るさ。今の私達日本人に必要なものではないだろうか。

永野悦子さんとの出会い
 永野悦子さんは、被爆者の一人として、自らの御経験、そしてご自身の胸の内を、私達に語って下さった。当時16歳で、学徒動員で長崎にいたが、鹿児島に疎開していた13歳の妹と9歳の弟を無理やり長崎に連れ戻してしまい、その二人が被爆してせくなったことに、80歳の今でも自責の念に駆られていらっしゃった。「心の傷」は体の傷よりも深く辛いことを感じた。被爆直後の弟さんの身体は皮がs剥げ、抱くことさえ出来なかったこと、被爆から3日後に亡くなった弟の遺体に、自分達家族で火を付けて焼かなければならなかった辛さ、毛が抜け体中に斑点ができ苦しみながら1ヶ月後に亡くなって行った妹、50年間のお母様との心の葛藤と「ありがとう、ごめんね。」の和解、等々、淡々と語って下さる永野悦子さんを前に、私は涙をこらえることが出来なかった。今年で被嫌から64年を迎えるが、永野さんは、最初の50年間、経験した「生き一地獄」のことは忘れたく、言葉にすることさえ出来なかったと言う。が、亡くなった家族が生きていた証を残したい、被爆体験を語らなければいけないという思いから、話を始められた。そう思うと、私達は、「沈黙の声」にもっと耳を傾けなければならないのではないか、と感じた。

岩永信一さんとの出会い
 岩永信一さんは、単なるタクシー運転手さんではない。岩永信一さんは、長崎に誇りをもち、長崎の歴史・文化をこよなく愛し、それを私達に、心を込めて説明して下さった。被爆二世として、被爆されたお母様の苦悩も、静かにお話し下さった。被爆をされた後遺症で、坂を上るのも疲れ(長崎は驚くほど急坂の多い町である)、すぐに横になることが多かったそうだ。今でこそ、「被爆認定」されることが悪いこととはされないが、当時は、被爆者であることで、結婚できなかったり、就職できなかったりした。それ故、被爆のことは一言も口にせずに亡くなった方も多かったそうである。ここでも、「沈黙の声」が聞こえる。浦上天主堂の秘話も教えて下さった。当時、「東洋一」とまで言われた浦上天主堂の裁爆直後の写真は、数年前まで公開されなかったそうだ。世界遺産となっている広島の原爆ドームの数倍の規模での破壊。当時の長崎市長は、市民とともに、この被爆跡を残そうとしたが、米国の圧力で難しかったらしい。一部のみ、今日も残っている。

 長崎の郷土料理に、「卓祇(しっぽく)料理」というのがある。岩永信一さんによれば、地元の人は、これを「和華蘭(わからん)料理」と呼ぶらしい。すなわち和洋中折衷、様々な文化を取り入れた料理ということだ。そして、長崎の人々は、朱色の円卓を囲み、身分上下の差なく皆平等に料理をつまむ。長崎人が大切にした、異文化との共存共栄の道が、この食文化にも表れている気がした。そして、これは世界の平和にとって大事なことだ。岩永さんの心温まる応対、お気遣いにも感謝している。冷たいお手ふきと飲み物を用意して、暑い長崎市をご案内下さった。長崎人のホスピタリティ・を感じた。

 歴史は人が作る。穏やかな長崎人との出会いを通じて、多くのことを感じ、学んだ。「平和の祈り」の旅は、終わらない。千代田区平和使節団の役割は、世界で戦争が絶えない限り、続く・。.。(合掌)
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 当時、長崎の永井隆記念館の館長をされていた、永井博士のご子息の永井誠一(まこと)さんから、1枚のしおりを頂戴した。そこには、「被爆地長崎に足跡を残したあなた、これからのその足で世界を歩いてください。」と書かれていた。
 世界を歩く時、世界中に広めたい数式がある。「6+9=15」。数は世界共通である。足し算は小学校1年生で習う。広島、長崎、終戦記念日、日本の8月は忘れられない。これも「ながいまこと」さんがしおりの裏に書いたこと。
 今日も、11年前と変わらず、長崎には暑い日差しが照らしていた。

 

2020年8月6日木曜日

広島、原爆の日に


 その日から75年が経った。その日を体験した人はもはや少数派である。が、世界の人々が知っている「広島」(Hiroshima)。人類初の原子力爆弾が投下され、大勢の一般市民が、未知の苦しみに堪えながら、命を落としたり、悲しい人生を送たりすることになった。

 広島には何度も訪れたことがある。記憶に残るのは、1980年代、学生の時、まだ平和記念資料館が建て替えられる前の旧館で(昭和の趣がありシンプルそのままで、より当時の雰囲気を醸し出していた)、展示の最後に見た階段に焼け映った人影が印象的で、いつまでも脳裏に残っている。その人影が、何かをいつまでも訴えているようだった。
 その日は、2人のイタリア人の学生の友人を案内したのだが、広島平和記念公園に出ると、すれ違った子供たちは、「あ、アメリカ人だ。」等と言って元気に通りすぎる。友人のイタリア人は、アメリカ人に間違えられることには慣れていたが、それを聞いて私に質問してきた。「なぜ、日本人は、アメリカ人に原爆を落とされても、アメリカ人に怒ったり恨んだり責めたりしないの?」と。咄嗟の友人からの質問に、私は何か答えなければいけないと思い、「うーん、日本には「水に流す」という言葉があるし、戦後の冷戦でアメリカには復興支援等で助けてもらったし……。」等、一応の説明はしたが、いまだに私自身、実はよくわかっていない。

 それから、1997年か1998年、OL時代、(株)博報堂内に設置されていた岡崎研究所(岡崎久彦所長、小川彰事務局長)の「日米韓、朝鮮半島プロジェクト」で、韓国の元外務大臣、元海軍士官、大学教授等(後の大臣や大使)とともに、広島・宮島・呉・江田島を訪問した。広島平和記念公園を一緒に散歩しながら、朝鮮半島出身者の追悼記念碑が、公園の一歩外にあるのに気づかされた。その夜、池田行彦元外相(広島選挙区)らと懇談し、数年後、同記念碑は公園内に移設される。

 21世紀に入り、まだ保育園に通う子供たちを連れて、広島を旅行した。平和記念公園の折り鶴、平和の鐘等に触れあいながら、どれくらい分かるか知らないが平和記念資料館も訪問した。特に何を言うこともなくじっと展示を見て、公園で遊んで帰った4歳前後の子供たち。帰京後、車のチャイルド・シートの上から運転席の祖父に向かって興奮したように話す。「知ってる、大パパ(おじいさんのことをこう呼んでいた)、原爆(げんばく)ってこわいんだよ。だって、レンガのお家まで壊してしまう(恐らく「3匹のこぶた」のイメージ)んだよ。それに、三輪車も車輪が取れてぐちゃぐちゃ。」。「お弁当箱も焦げていた。」と横からも一人の保育園児も印象を話す。子供たちの目線で原爆の怖さを感じていたことを気づかされた。

 30年の時を経て、前出のイタリア人の友人が、2015年、家族を連れて再来日した。自身は旅の疲れと脱水症状で点滴まで必要とする身体だったが、子供たち家族には、広島平和記念資料館を一瞬でも見に行くように奨めた。「百聞は一見に如かず。」駆け足ながら、資料館の展示は彼らの記憶に深く残った。

 昨年2019年、G20サミットが大阪で開催された際、EUのドナルド・トゥスク大統領は、来日したら必ず訪問したかったと広島と長崎を多忙なスケジュールに入れた。その時、世界の首脳たちが広島と長崎を訪問し、人類が手遅れにならないように軍縮すべきだと述べていいる(以下、参照)。
トゥスク大統領はポーランド出身である。日本とポーランドには、「負の世界遺産」として人類史上忘れてはならない記憶遺産として「アウシュビッツ強制収容所」と「広島原爆ドーム」が登録されている。

 梅雨が明けると、けたたましいほどに元気な蝉の声であるが、今日の蝉は、青空に響きながらも、どことなく寂しげに聞こえる。そんな日が15日まで続く。

2020年8月2日日曜日

李登輝総統と武士道


 

 

2020730日夜、李登輝元台湾総統が97歳でご逝去された。
 李登輝総統は偉大な指導者であった。「台湾民主化の父」等、台湾の政治、国家の発展にご尽力さえた功績は多大なものである。
 が、一日本人として、忘れてはならないのは、
李登輝総統が、武士道精神を教育の中心に据えることの重要性を常に説いていらしたことである。李登輝総統がお書きになられた『武士道 解題』(小学館、2003年)の「はじめに」の一部を以下に引用する(下線筆者)。

「いま、私たちの住む人類社会は、未曾有の危機に直面しています。」  
「世界各地でますます不穏で危険な動きが増大しつつあります。 しかも、政治や軍事 の面ばかりではなく 経済の面でも「大恐慌の再来か」と言われる世界同時不況の予兆 が日増しに高まり、人々の不安や不満は募る一方です。」
 「人類社会全体がこのよう な危機竿頭の大変な状況に直面している時だけに、 世界有数の経済大国であり平和主義国家でもある日本および日本人に対する国際社会 の期待と希望はますます大きなものとなりつつある、と断言せざるを得ませ ん。数千年 にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、六十億 人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです。
 私自身が日本の教育の中で豊富な知育と徳育を授けられ、それを通して知識や知恵に目覚め、「人間いかに生くべ きか」という根本的な哲学や理念を身につけてきた からこそ、なおのこと、この人類史的危局の中において必要とされている「日本の心」 の大切さを、思い起こさずにはい られないのです。
 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
これは、私が敬愛する新渡戸稲造先生の名著『武士道』の中で改めて紹介されて いる本居宣長の和歌ですが、この「大和心」こそ、日本人が最も誇りに思うべき普遍的 真理であり、人類社会がいま直面 している危機状況を乗り切っていくために、絶対に 必要不可欠な精神的指針なのではないでしょう か。
 しかるに、まことに残念なこと には、一 九四五年(昭和二十年)八月十五日以降 の日本においては、そのよう な「大和魂」や「武士道」といった、日本・日本人特有の 指導理念や道徳規範が、根底から否定 され、足蹴にされ続けてきたのです。」
「依然として前途に明るい曙光を見いだしえぬ今日のような窮地にあって、 そのような自虐的価値観は日本人ばかりではなく、世界の人々にも大きな打撃と失望を与えずにはおかないのです。なぜなら、国際社会全体が不況と不安に晒されているときに、最も頼りになるべき国のひとつ(日本および日本人)まで混乱と混沌の中を漂流し続けていたら、人類社会そのものが羅針盤を失いかねないからです。いま日本を震撼させつつある学校の荒廃や少年非行、凶悪犯罪の横行、 官僚の腐敗、指導者 層の責任回避と転嫁、失業率の増大、少子化など、これからの国家の存亡にもかかわりかねないさまざまなネガティブな現象も、「過去を否定する」日本人の自虐的価値観と決して無縁ではない、と私は憂慮しています。そして、この傾向をこのまま放置しておけば、日本だけではなく世界全体が不幸になる、と心の底から危惧しているのです。」
「ここであえて、「日本および日本人の醇風美俗」や「敷島の大和心」、もっと単刀直入に言えば「武士道」について声を大にして大覚醒を呼びかけ、この書を世に問わねばならなかったのです。この点にこそ、いま人類社会全体が直面している史上いまだかつて経験したこともないような危機的状況の深刻さがあると言えましょう。」

 李登輝総統の残された言葉は、現在、世界が新型コロナウィルスの感染拡大で不安な毎日を暮らしている状況で、なお身に染みて感じられる。
 この後、李登輝総統は、新渡戸稲造の『武士道』から引用をされる。
 そして、激動の時代に、日本および日本人にとって、「武士道」がいかに大切で尊く、これからも必要であるかを述べている。日本人である私達には、この李登輝総統の誠実なまでの訴えを真剣に受け止め、実行していくノブレス・オブリージュがあるのではないか。

 実は、筆者は、昨年、令和元年5月から「新渡戸稲造の『武士道』を英語で読む会」を主宰し、仲間を募り、難解な原文の英語を、矢内原翻訳(岩波文庫)を片手に読み解いてきた。
 そこで気づかされた事は、日本の道徳的価値観や伝統的習慣に、現在忘れかけている多くの美徳があるということである。
 そもそも、新渡戸の『武士道』を英語で読もうとしたきっかけは、英語能力の向上と、日本文化を知ることにあった。東京オリンピック・パラリンピックを前に、「日本のおもてなし」の心は何か、フェアプレイ精神と武士道の関係は何か、世界中の人々を迎える日本人が持つべき指針を探求していたのかもしれない。
 今回、李登輝総統は、そんな筆者に、大きな自信を与えて下さった。新渡戸稲造の『武士道』を選んだのは間違えではなかった、と。それ以上に、もし日本と日本人が、その武士道精神を取り戻し、世に示すことができれば、それは人類の危機を救う羅針盤になるかもしれないとの発想は、この混沌とした世界に大きな希望を託された思いがする。

 李登輝総統に心からの感謝を捧げながら、尊敬の念とともにご冥福をお祈りしたい。


 その李登輝総統のご遺志に報いるには、私達日本人一人ひとりが自信と誇りを取り戻し、「日本の伝統的価値観の尊さ」を再認識して実行して行くことが大切だろう。
 筆者は、今日から一歩を進めたい。藤井茂・長本裕子著『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』(新渡戸基金、2016年)を活用しながら、毎日、その中の新渡戸の言葉を拝借し、自分達が現在感じることを一言でも表現して、心ある方々と交流して行きたいと思う。そこから、また発展があるかもしれない。

81日 「隣家の財は多いもの、隣家の飯は甘いもの、とかく他人を羨みたいは人情だ……、だが羨む心も向けようで、貪り、妬みにもなるし、励み、競いにもなる。」(新渡戸稲造、『帰雁の蘆』)

 「隣の芝生は青い」という表現があるが、他人のものは、何となくよく見える。幸せそうだとか、得しているとか。でも、それは、そう見えているだけで、実は、見えない所では、案外苦労しているかもしれない。わからないものである。だから、見ただけで判断しない方が良いかもしれない。あとは、新渡戸が言うように、あの人が出来るなら自分だってやってみようとか、そうなるために頑張ろうとか、良い意味の負けず嫌い、プラス思考が大切なのだろう。(鈴木くにこ)

8月2日 「我々が恥ずかしいと思うだけにとどまるならば、何の効果もない。早く心を改むることが必要である。しかるに自分の不足を感ずることは案外にやすい。特に頭脳の鋭敏な人は、……自分の短所にもよく気づくものである。」(新渡戸稲造『世渡りの道』)

 人間誰しも、完璧な人はいない。だから、欠点、短所は恥ずべきことではない。ただ、それを隠したり見ないふりで、自分は完璧だと思っているほうが恥ずかしい。「実るほど頭の下がる稲穂かな」、というように、偉大な人ほど、謙虚であり、自分にも厳しい。(鈴木くにこ)


*実は、7月から「新渡戸稲造の至言から学ぶ会」の会合を予定していましたが、このご時世で取りやめました。これからWeb上で意見交換をして行きたいと思いますが、ご興味のある方は、以下にご連絡下さいませ。
NipponIA2020@gmail.com