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2018年12月2日日曜日

第一次世界大戦終結100周年をパリで迎えて

 2018年11月11日11時、パリで第一次世界大戦100周年記念式典が開催された。
100年に一度の行事、日本も戦勝国の一員、私はパリに赴き、凱旋門のふもとで、その時間と空間を、世界70か国の首脳達と共有した。


 パリに行って初めて気づいた。この日の主役は、マクロン大統領でもトランプ大統領でもない。それは、100年前のその日、フランスの首相を務めていたジョルジュ・クレモンソ(Georges Clemenceau)だった。
 
 11月11日の前夜祭10日と当日の二日しかやらないミュージカルの題名は、「クレモンソ」。フランス国家に尽くした軍人や文豪、偉人等の棺が安置されているパンテオンに行くと、そこではクレモンソの特別展が開催されていた。
 10日のミュージカルは、よくコンサート等も開催されるパレ・デ・コングレで行われた。大きなホールがフランス人の家族、友人等でいっぱいだった。若い人も多かった。周りを見る限り満席。歌の上手い人気の格好いい俳優も出演していた。フランスは、第一次大戦では第二次世界大戦以上の犠牲者を出している。その戦争をミュージカルに仕立てたわけだ。愛する人に、若い将校が、「戻ってくる。約束するよ。」と歌いながら語るシーンは、日本も同じだったと思いながら、ジーンときた。そう言いながら、激しいドイツとの戦いで、戻ってくることがなかった青年たち。フランスの「14-18戦争」は、日本の「大東亜戦争」か。ドイツ軍が初めて毒ガスという化学兵器を使用した戦争と、米国が初めて原爆という大量破壊兵器を使用した戦争……。

 ミュージカルの最後は、米国の参戦で勝利し、明るく終わる。フィナーレで、役者さん達が出て来ると、観客の大きい拍手。一部の人は立って拍手。その後、アンコールのように、舞台からかどこからか、フランス国歌「マルセイエーズ」が歌われ始めると、座っていた観客も、一人残らず総立ちとなり、皆でマルセイエーズを合唱し始めた。その心の団結は、1つの方向を向いていた。フランス人としての誇り、歴史、国家に尽くした人への哀悼と尊敬、そして希望をもって前に進む自信。愛国心が湧き出た会場となった。
 翌11月11日は雨だった。100周年の記念式典は11時からだったが、フランス大手メディアは8時から実況中継するという。私と友人も、8時半すぎにはホテルを出て、凱旋門に向かった。既に、式典に参列する軍人さん達が到着して、整列して凱旋門の方に進んで行った。それを目の前に観て、感激。



雨の中、多くのフランス人、外国人たちも集まってきた。子供を前に行かせる等、譲り合った。私の右隣に、勲章を付けているフラ
ンス人がいたので尋ねてみた。フランスで長年ジョンダルムリ(la Gendarmerie、警察と軍の間のような組織)に勤めていて大統領に表彰されたそうだ。
 左隣には、小さな子供がヘルメットをかぶって兵隊さんの格好をして式典を見ていた。後ろにいたフランス人の背の高いおじさんは、「ほら、トランプ大統領が来たよ。」、「マクロン大統領だよ。」とか「フランス国歌が歌われている。」等、傘をさしながら、私をつついて教えてくれた。 

 マクロン大統領の演説の後、オーケストラからチェロの音が厳かに聴こえてきた。秋の凱旋門に雨の中、美しい音色を響かせた。それから歌……。

Tomoko撮影
とにかく濡れて寒かった。後ろの人の傘の雫が袖に入ってしまった。足早に凱旋門を後にした。厳戒態勢のもと、地下鉄にろくに動いていなかった。が、降りた駅の目の前がギメ美術館。ちょうど、明治時代の特別展をやっていた。それから、外国人が多く住む13区ああたりにあるベトナム人のお店でフォーを頂いて温まり、クレモンソ展をしているパンテオンの向かった。



クレモンソは、第一次世界大戦時の首相としてフランスでは有名だが、日本では意外と知られていない。が、実は、日本の歴史上重要な人物と親交があった。西園寺公望がフランス留学中、クレモンソと同じ下宿にいたと言われる。そして偶然にも、第一次世界大戦の終結に関するパリ講和条約締結の会議では、クレモンソが議長を務め、西園寺は日本の代表団の全権の一人だった。また、クレモンソは、多くの日本人が好む印象派の画家モネの親友だった。上記のミュージカルでもパンテオンの特別展示でも、クレモンソの物語には、必ずモネが登場する。そのモネに絵を習っていたのが、パリ留学時代の東久邇宮稔彦王で、モネはクレモンソに、東久邇宮を紹介する。東久邇宮は1945年、太平洋戦争終戦直後の内閣総理大臣だが、日米開戦には、日本は到底かなわないと反対していたと言われる。きっと、クレモンソから、米国がいかに強く自分達フランスを第一次世界大戦でドイツから救ってくれたかを、聞いていたに違いない。
 それにしても、モネもクレモンソも日本が大好きだったようだ。モネの住んでいたジベルニー(パリ近郊)の家に行くと、浮世絵が飾ってあったり、お庭に日本風の橋や睡蓮の池がある。クレモンソに関しても、日本の美術品を収集していたようで、モントリオールに、クレモンソ・コレクションとして納められているらしい。いつか見に行ってみたい。
                                                                                                                                         

2018年11月24日土曜日

皇太子同妃両殿下ご臨席の灯台150周年記念式典

2018年11月1日、国土交通省・海上保安庁主催の灯台150周年記念式典がパレスホテル東京で挙行され、参列する機会を得た。式典には、皇太子同妃両殿下がご臨席された。妃殿下のご臨席は式典開始の1時間程前に正式に決定したそうだが、両殿下お揃いでのご臨席は、灯台150周年式典をより華やかなものにした。私もとても嬉しかった。

 同式典において、皇太子殿下は、次のようなおことばを述べられた。



 「我が国における灯台を始めとする航路標識の整備が,政府事業として明治元年に始められてから満150年を迎え,その記念式典が挙行されることをうれしく思います。
 灯台は,内外多数の船舶にひとしく利用され,日夜,船舶交通の安全を守る大切な使命を担っていますが,その背景には,創業当時から,常に最新の技術と創意工夫とによって,航路標識をより見やすく,信頼性のあるものへと改善してきた歴史があります。そして,孤島やへき地といった厳しい環境にも耐えて灯火を守り,航海の安全に尽くしてこられた多くの人々の絶え間ない御苦労があったことを忘れることはできません。
 私自身,4歳の頃,両親と共に初めて千葉県に旅行した際に野島埼のじまさき灯台を訪れました。その後も幾つかの灯台を訪ね,灯台に課せられた重要な使命を感じることができました。また,灯台守を描いた「喜びも悲しみも幾歳月」の映画や歌の歌詞も印象に残っております。これまで,過酷な環境の中で任務を果たされてきた灯台守の方々に心から敬意を表します。(下線筆者)
 近年の航路標識は,技術の進展によって著しく近代化が進み,海上安全情報の提供や,海上交通の管制等によって,海の安全・安心の確保に一層寄与していると聞いております。
この機会に,過去150年にわたる先人の業績と関係者のたゆみない努力に敬意を表するとともに,灯台を始めとする航路標識が,今後とも船舶交通の安全確保に貢献し,我が国を囲む海が一層安全で,美しく,豊かであることを願い,式典に寄せる言葉といたします。 」
(宮内庁ホーム・ページより)




海上保安庁交通部『海を照らして150年』より
皇太子殿下のおことばの後、ピック駐日フランス全権大使が祝辞を述べられた。何故、フランスの大使かと言うと、150年前の日本初の洋式灯台の建設に携わったのが、フランス技師、フランソワ=レオンス・ヴェニエ氏だったからだ。ヴェニエは、皇帝ナポレオン3世の任命で日本に派遣され、横須賀造船所の建設に関わっていて、明治政府の要請で、灯台の着工も行なった。今年は、明治維新から150年でもあり、明治元年に、日本はフランスの技術を借りて近代様式の灯台を建て、海を照らして、日本の安全を守り、海洋国家として発展してきた。本年は、日仏国交樹立160周年でもあり、7月14日には、自衛隊がフランスの軍事パレードに参加し、皇太子殿下は9月7日からフランスに行啓された。安倍総理も10月に訪仏された。これらを受け、ピック大使は、灯台が船を導き、未来の道を示すように、日仏交流が未来永劫に発展するように、との祝辞を述べられ、最後を、日仏交流に「栄光あれ!」と日本語で締めくくった(原語はフランス語で逐次通訳あり)。

 150年前の1868年11月1日に着工された日本初の洋式灯台は、横須賀の観音崎灯台である。現存のものは関東大震災で破壊され建て替えられたものだそうだが、全国には、明治期に造られ今でも運用されている灯台が64基もあると言う(全国合計は約300基)。いかに先人達の技術が高く、かうそれを維持・発展させてきた灯台守達が素晴らしかったかが想像できる。そのうち、現在でも特に優れているAランクの灯台として23基が指定され、それらには、例えば、犬吠埼灯台、金華山灯台等がある。1つ興味深かったエピソードは、当時
、灯台建設に対して、海を照らすと魚が減ってしまうのではないかという懸念から、漁師たちから灯台建設即時停止の運動があったそうだが、実際灯台が竣工した後、鰹が豊漁になり、漁師たちは安心したということだ。
 灯台150周年記念式典の後、懇親会が開かれた。そこには、小学生、中学生等も家族と来ているのが見受けられた。愛知県や和歌山県、長崎県等、各地から、灯台絵画コンテスト受賞者が来ていた。素晴らしい絵画が会場前の廊下に飾られていた。
 この子供達一人一人が、未来を照らしてくれる役割を担ってくれるのだろう。そんな気がして、会場を後にした。




*11月5日、「灯台150周年記念式典」について、チャンネル桜「フロントジャパン桜」で、45分~1:00の所で話しています。下記URL参照。
https://www.youtube.com/watch?v=ZOajn-4eTEo


2018年11月1日木曜日

Everyday is a good day.

'Everyday is a good day. ' is a title of a Japanese film directed by Tatsushi OMORI, in which an actress KIKI Kirin played a role of a teacher of a tea ceremony, one of the Japanese traditional culture.
KIKI Kirin passed away this year at the age of 75,  she was also playing an important role in a film 'Shoplifters' which received the Palm d'Or of the Festival of Cannes this year 2018.

Why everyday is a good day? When it rains, we enjoy listening to the sounds of the rain. When it is sunny, we enjoy feeling the sunshine.
Everyday, we can learn something. Everyday, we can enjoy something.
Nature gives us lots of things, but we sometimes ignore or miss them.

We can make a day good or bad.
We can try to make a day better.

Tomorrow, it will be another day.

So, everyday is a good day.
A Happy Halloween!



美食外交

 今日はハロウィーン。カボチャ・パイに、パンプキン・スープ、それともかぼちゃの煮物?「Trick or Treat」(いたずらかおもてなしか)、もちろん、「おもてなしを」と言って、子供達がもらうのがキャンディーやお菓子。やっぱり食いしん坊、誰でも美味しいものが好き、食欲の秋です。
 先日、アラン・デュカス(Alain Ducasse)のドキュメンタリー映画、「宮廷のレストラン」を観た。アラン・デュカス氏は、今年亡くなったジョエル・ロビュション(Joel Robuchon)と並ぶ世界最高峰のフランス料理のシェフ。世界中に星付きのレストランを有す。彼がヴェルサイユ宮殿内に新しいレストランを開店する過程が映画化された。

 私は、アラン・デュカス氏の行動の様々な側面い感動し、感激し、元氣をもらった。
1 まず、彼は、徹底的に素材にこだわる。それも、自然を大切にする。「自然な美食」(la gastronomie de la naturalite)を追求し、自ら畑に出て、その場で野菜でも何でもかじる。
2 世界中、地球の果てまで行って探求する。映画では、日本に始まり、米国、ロンドン、中国、モンゴル、フィリピン、ブラジルと渡り歩くDucasse氏の姿があった。中国では、イランの技術を取り入れたキャビア養殖場を訪ね、ブラジルでは、チョコレートの素ととなるカカオの森林に入る。徹底した現場主義である。
3 人を大切にする。各地で、かつての教え子、弟子たちと会う。アメリカ人も、イタリア人も、フィリピン人も、皆、彼を尊敬し、彼に感謝する。フィリピンでは、スラムにも行く。料理人育成学校では、毎年、恵まれない若い人達に奨学金を出している。そして、全員、一定期間、パリで研修させる。メセナ(CSR)の一環かもしれないが、若い人達と肩を並べるグランド・シェフには愛情が感じられた。
4 妥協をしない。どこの国に行っても、どのレストランに行っても、すぐ厨房に入り、味見をして、チェックを欠かさない。各レストランのショフは、デュカス氏が現れると緊張している。気を抜けない。でも、真剣勝負。褒められると嬉しい。
5 アランは日本がお好き。毎年、4-5回来日すると言う。自分のレストランに寄るのはもちろん、日本食の小さなお店も訪れる。京都も好きだ。カウンターで気さくに食事をする。卵丼に山椒をかけたり、吟味した材料(なまこ?)を見ながら天ぷらを食したり……。カウンター越しに、日本人の料理人と会話を楽しむ。
6 アラン・デュカス氏は、レストランで一般客に美食をふるまうだけでなく、VIPや大きなパーティで外交を支える。オランド大統領の時には、気候変動の国際会議COPが開催されるのを聞き、いかに食事を倹約してリサイクルして提供できるかを会議の晩餐会で試したいと提案する。実現はしなかったが、ヴェルサイユ宮殿での晩餐会では、各国大使を相手に、自らも外交をする。
 ビジネスでも外交でも、空腹で交渉するものではないと言う。人間、空腹では不機嫌、やはり美味しい物を食べたり、美しい物を見たりすれば、誰しも幸せ気分である。
 外交にとって、食文化は非常に重要な要素。だからこそ、気も遣うが、フランス人や日本人は、口にうるさいだけに、美食外交は得意とするところだろう。
 美食は、外交の1つの武器である。
外務省のサイトに面白いページを見つけた。「公邸料理人」、外交を蔭から支える縁の下の力持ちである。Japan is Delicious! 「日本は美味しい!」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/zaigai/ryourinin.html

2018年10月24日水曜日

日日是好日

日日是好日ーー毎日が良い日、そうなるように、毎日を大切に
一期一会ーー一時一時を大切に、人との出会い、物や自然との出会い、その瞬間

お茶の先生や気功・武道の先生のお薦めもあり、本年75歳で他界された樹木希林さんを偲びつつ、映画『日日是好日』を観に行った。映画館に足を運んだのは久しぶりのこと。

高校の時、留学前にお茶を習ったことはあったが、全て忘れていた。50を過ぎて、半世紀を生きてくると、人生に対する向き合い方が変わってきた。日本人に心からなりたくて、改めて始めたお茶のお稽古。その心も学べるかと思って映画を見に行った。

黒木華が演じる主人公。真面目で努力家で、理屈っぽいけど、不器用でおっちょこちょい。人生で躓くことも多いけれど、歌ったり踊ったり、海が好き。自分の性格や人生と似ていて、重ねて見ていると、時々涙がこぼれた。

雨の日は雨の音を聴く。晴れの日は日照りの太陽を感じる。そんな異なる毎日の自然の中で日本人は、四季を楽しみ、自然を慈しみ生きてきた。だから、自然災害が続く日本列島の各地で生活しながらも生き延びてきた。自然を克服するより、自然と共存することを選択した。

華道の先生は、「花のことは花に聞きなさい。」とおっしゃる。生け方に困ったら、頭や理論ではなく、自分の目の前にある花と対話しなさい、ということだ。私は、ある時、柱にぶつかって、思わず、「失礼。ごめんなさい。」と言っていた。はたから見たら、変な人だと思ったかもしれない。人に対してならともかく、柱に対して謝るなんて。でも、おそらく、「花に聞いてみる」姿勢と共通する点があると思う。花も話すわけではない。しかし、目の前にあるものと対話することで、そこに「一期一会」が生まれる。
路傍の石にも、一寸の虫にも、野の草にも価値を見出す日本人。八百頭の神様は、どこに潜んでいるか分からない。生きとし生けるものを大切にするのが日本の心……。

樹木希林さんが亡くなった後に公開された『日日是好日』。茶の湯の先生としての樹木希林さんの最期の作品は、たくさんのことを教え、感じさせてくれた。脚本家も監督も、心ある方だと思う。日本の日常になる家族、人との係わり、人生の浮き沈み、見る人、それぞれに語りかける作品である。そこには、命の大切さも語られている。
今会っている人とは、明日会えなくなるかもしれない。戦国時代の厳しい社会、時代から生まれた茶の湯。だから、一期一会を大切にすると言う。その心は、現代でも変わらない。どんなに科学技術が発達しても、人の命ははかない。病気、事故、災害、テロ、原因はなんであれ、人の命は永遠ではない。でも、人が残してくれたものは、引き継がれて行く。
樹木希林さんは、75歳という、日本人女性の平均寿命頼よりもお早く亡くなられた。こうしてみると、大切なのは、何年生きたかではなく、どう生きたかなのだと思う。丁度2年前、母のように私のことを「くにこちゃん」と気にかけて下さった尊敬する女性が、やはり75歳で亡くなられた。ご自身が大病をされながらも、最期まで人のことを気にされ、人に尽くされた方だった。第一にその方に渡したかったのが、私が今年初めて出した単著『オリンピックと日本人の心』である。
この本を出して後、気になって、隈研吾さんの『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』を読んだ。その最後は、「だから木を使うのである。たくさん、たくさん、木を使うのである。」で締めくくられていた。
あぅ、不思議とつながった。樹木希林さんのお名前。たくさん、たくさん、木が使われている。そして、その木に囲まれているのが、希望の希。『オリンピックと日本人の心』の最後で私が掲げた拙歌が、本年4月に詠んだ「いち早く靖國に咲く五輪の花 未来に託す希望のごとし」だった。ここにも「希望」があった。本日(10月23日)に観た『日日是好日』でも、主人公の父は満開の桜の下で他界した。「寂しい桜になってしまったわねえ。」と縁側に座って主人公に話しかけるお茶の先生の樹木希林さん。そして、「桜の花のように、パッと散ってしまいました。」と答える教え子の黒木華さん。しっとりとした会話に日本人の美意識を感じた。
『オリンピックと日本人の心』は、「命」と「心」の本、とあとがきしたが、『日日是好日』は、「命」と「心」の映画だと思った。
樹木希林さん始め、多くの方の命と心に合掌したい。


2018年10月12日金曜日

10月10日体育の日(オリンピック散歩道)

 54年前の今日、1964年10月10日、アジア初のオリンピックが東京で昭和天皇の開会宣言とともに始まった。本年6月23日、オリンピック・デーに、初めての単著『オリンピックと日本人の心』を上梓した私、鈴木くにこは、その原点に触れようと、当時と同じような秋空に恵まれた10月10日の午後、神宮外苑を目指した。

 スタート地点は、南青山の隈研吾建築都市設計事務所。2020年の東京オリンピックに向けて来年11月に完成予定の新国立競技場を設計した所。その息吹を感じたかった。大通りから一歩入った静かな所に、看板を掲げることもなくシンプルに存在していた。一階が竹の小道のある日本料理だが、2階以上は明るく開放的なオフィス。
 偶然のことだが、ここを拠点にしたのには、もう一つ意味があった。私が『オリンピックと日本人の心』を執筆する際に、「花は足で生けるのよ。」と教えてくれた友人が、すぐ近くで長年、茶の湯のお稽古をしていたからだ。そのお茶の先生は、つい先日、9月末に最期まで現役で94歳で他界された。友人のお茶会に招かれた時に、2回ほどお目にかかったことがあるが、とてもお優しい先生だった。

 伝統的日本文化と新しい建築、1964年と2020年、そんな二つの時間と空間を融合させながら、10月10日の青山のオリンピック散歩は始まった。
 青山通りから神宮外苑に向かう並木道に曲がる所で、聖徳記念絵画館を真正面に見て、私は、自然と頭を下げていた。何となく会釈してから、並木道を歩き始めた。東京都のシンボルマークである銀杏の葉が地面に落ち始めていて、きれいな可愛い模様を作っていた。まるで、2年後の東京オリンピックの道しるべを示すように。秋の午後の光に照らされて、緑のアーチの並木道は、昔見た印象派のピサロの絵を思い出させた。1894年にフランスから始まった近代オリンピック、そして今年は日仏国交160周年、その間のジャポニズムや日仏の交流の歴史、そんな中でのフランス絵画の印象派の光が、今日21世紀の秋の東京の穏やかな風景と重なるのが面白い。



 54年前の原点を求めて、自然の光と空気に触れながら、歩みを進めた。車の音が気になりながらも、ふっと公園の緑の向うに、白っぽい建造物が見えてきた。あれが新国立競技場だろうか…。何だか隠れた宝物を見つけたようでわくわくした。まずは、小さな憩いの公園に入って、緑の中から眺めた。
そして、改めて、もっと近づいてみた。

 目の前に現れた新国立競技場は、巨大ながらも重圧感や圧迫感がなかった。何かを語りかけるようでもあった。
 隈研吾氏が新国立競技場について語る記事を幾つか読んだ。新国立競技場には、松や杉の木材が使用されると言う。「松」で、思い出されるのが、オリンピックのエンブレムが「市松文様」。そして、2020年の東京復興五輪の式典演出の統括を務める野村萬斎氏らが舞う能舞台には、いつも背景に「松」が描かれている。そして私が忘れられないのが、岩手県陸前高田の希望の「一本松」。2011年の巨大津波の中でも、1本のみがピーンと空高く生き残っていた。今年6月末、岩手県庁を訪ねた時、職員の方の名刺に「一本松」の写真が載っていて、7年経っても心にジーンと浸みた。
新国立競技場では、47都道府県の杉の木を使うと聞いた。各地から集めるのは大変だろうが、何て素敵なんだろうと思った。新国立競技場を、北海道から沖縄までの、みんなの拠り所にする、全国でおもてなしをして世界の人々をお迎えする、そして多様な地域が個性を持ちながら新国立競技場で一体化、和(輪)を成す、そんなコンセプトが浮かび上がって来る。47都道府県というと、皇居の周りをマラソンしたりお散歩したりするとわかるが、47都道府県の花が地面に描かれ、それが皇居をぐるっと取り囲んでいる。また、国会議事堂公園にも、確か47都道府県の木が植えられている。皇居と国会議事堂と新国立競技場が、47都道府県で結ばれる。東京に全国がある、全国が東京に集まる、だから東京オリンピックは、日本全国のオリンピック。
 隈研吾著『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』の最後は、「たくさん、たくさん、木を使うのである。」と締めくくられている。たくさんの木材を思う時、私は子供と共に参加した森林体験を思い出した。山に入り、ヘルメットに軍手姿で、木こりのように木を伐採した経験だ。その時のお話で印象に残っているのが、「魚は一日漁に出れば釣れる、田畑は半年から一年で実がなる、でも木が使えるようになるには何十年もかかる。」ということ。農林水産業の中でも、林業が特に難しいのは、自分がやった成果が生きているうちに見られるかさえわからないこと。日本では林業が衰退しつつあると聞くが、それでも全国では、植樹祭が毎年開催され、両陛下がご臨席される。今年の植樹祭は福島県で開催された。被災地のことを常に気にかけていらっしゃる両陛下の御心は特別である。
 もう一つ、伐採をしていて気づいたこと。伐採というのは、たくさん育ちすぎた木を幾つか切って、木をまぶし、より良く日が当たるようにすることである。木を切ってしまうことをもったいないとは思わず、木を切ることで、より良く木を育てるのだ。このやり方は、日本の様々な文化とも共通すると思った。生け花をしていると、空間を大事にするために余分な葉や花を取ってしまう。そうすることで、花はより引き立つ。かつて千利休が、庭先のよく咲いた朝顔を一輪を残して全部取ってしまってお客様を迎えたことは有名な話である。日本画でも書でも空間、白紙の部分を大切にする。お能でも、面の表情や静かなしぐさは、全てを表現したり言い切ったりせずに、見ている人の想像に任せると言う。西洋のフラワー・アレンジメントはたくさんの花を飾って豪華にし、西洋画は、白いキャンパスを埋め尽くす。木の空間は、光だけではない、風も通す。水も通す。木を伐りすぎてしまうと、水は流れ洪水等の被害を及ぼすが、適度の木は、雨水を地面に浸透させる。
 今年は、関西の地震、西日本の豪雨、台風21号、そして北海道地震と、夏の酷暑も挟んで、日本が災害大国であることを、まざまざと感じさせられた。温暖化の気候変動によることもあるが、日本の歴史を見ると、何百年も前から、同様なことが、噴火も含めて、起こっている。そんな自然の驚異にさらされながらも、日本人は自然と共存して生きてきた。その中から生まれた知恵が「和を以て尊し」ではないかと最近思った。厳しい自然の中では、人間は助け合って行かなければ生き残れない。争っていては生き延びれない。
 平和の祭典としてもオリンピック。古代ギリシアでは国家(ポリス)同士の争いが絶えなかった。その争いも、オリンピック開催中は、停戦した。

 木の伐採は光と風を通すと上記したが、人間は光と空気の他、水がなければ生きていけない。そして、川のそばに古代文明が発達したように、人類の文明は水と共に発展してきた。新国立競技場の建設にあたり、隈研吾氏は、環境の大切さを説き、1964年に埋もれてしまった渋谷川を再現することに触れていた。今日10月10日にそれを確認することはできなかったが、水を取り戻すことは、生活環境に潤いを与えることでもある。そして、水の尊さを誰よりもお分かりなのが、水をテーマにご研究をなされている皇太子殿下であられよう。その皇太子殿下が、2年後には、新天皇陛下として、ここで東京オリンピックの開会宣言をされるのである。

 新国立競技場を眺めた後、明治維新から150周年、聖徳記念絵画館に赴くため、道を折れた。そこで、目に入ったのが、何と日の丸の旗。オリンピックで日本人がメダリストになった時に、会場に高く掲げられるように、大空に高くはためいていた。何だか、オリンピックで日本を応援してくれているような気分になり、嬉しさがこみ上げた。
そんなワクワクしていた私に、向うから自転車に乗ったおじさんが声をかけてきた。元気一杯に、「私は小さい時から、ずっとこの近くに住んでいて、よくここで遊びました。その噴水の水が冬になると凍って、割って遊んだ。東京空襲の後、疎開から戻ってきたら、そこいらに焼夷弾が突き刺さっていた。オリンピック毎に引っ越しさせられた。前回と今回の2回。」と話して下さった。お幾つか尋ねると、85歳だとおっしゃる。とにかくお元気で、今は、小学校等で、大繩を回して子供達に外で遊ぶことを教えたり、戦争体験を語ったりしているそうだ。
 いよいよ10月10日の青山散歩の最終目的の絵画館。

正面玄関を真正面に見て、階段を上ろうと下を見て、びっくりした。真下に日の丸が。あっ、やっぱり今日はオリンピックのの日だったんだ。

 
 

2018年10月5日金曜日

没後50年、3つの藤田嗣治展

本年2018年は、藤田嗣治が1968年1月29日に亡くなって丁度50年になる。
今もFoujitaの作品は、世界中で慕われている。
今年、私は、3つの藤田嗣治展に行った。

1つ目は、7月にパリのマイヨール美術館で開催されたものだ。パリ7区のお洒落なサンジェルマン地区の住宅街の一角にある小さな美術館。通常は彫刻家マイヨールの美術館である。この展覧会を知ったのは、あるニュースで、フランスの公共バスに藤田の自画像とともに広告が出ていたのを見たからである。
館内では、静かに作品に見入るフランス人が絶えなかった。教養がありどこか良さげなBCBG風のフランス人が多かった。



















2つ目は、7月19日、パリから帰国した日に訪れた銀座のギャラリーためながの藤田嗣治展である。20日からの会期の前のレセプションで、藤田の多様な作品を鑑賞することができた。ギャラリーの創設者の為永清司会長は、藤田と親交があったと言う。そして、おそらく藤田に魅了したのだろう。二代目の為永清嗣社長の名前からも、それが想像できる。
3つ目は、昨日10月3日に訪れた上野の東京都美術館での藤田嗣治展。若冲展の時と同じ場所で、同様の混雑だった。平日の朝でも、各地から人が来ていた。美術館や音楽会、歌舞伎等、最近気づい事たが、文化にお金を使うのは女性が圧倒的に多い気がした。美術、すなわち美しい物への感情がより敏感なのかもしれない。そして、それらにお金を使うことを良しとする。
 駅で見つけた都美術館の藤田嗣治展の広告の文章が目に留まった。
「私は世界に日本人として行きたいと願う。」
藤田の言葉だろうか。私も全く同じ心境である。
私だけではない。子供達や教え子達、若い人達に、日本人の心と日本人としての気概と誇りをもって世界に羽ばたいてほしいと思う。どんな分野でもいいから一流を目指してほしい。
秋が少しずつ深まって行く上野公園の青空の下、藤田は私に人生の指針を示してくれたような気がした。