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2020年6月23日火曜日

6月23日は何の日? ~「沖縄慰霊の日」、日米同盟条約発効、「オリンピック・デー」~

 2020年6月23日、本日は、1945年の沖縄戦が組織的に終結した「沖縄慰霊の日」75周年であった。毎年、この日は沖縄では休日となり、県民皆が平和を考え、祈る日となっている。
 丁度10年前、沖縄を訪問した直後、私は、次のようなことを記していた。

<沖縄は日米同盟の棘か光か>
 「沖縄問題は日米関係の棘である。」と言われることがある。何故か。それは、在沖縄米軍基地にまつわる事件・事故が大きな反米・反基地運動につながり、それが良好な日米同盟関係を揺るがすきっかけになることがあるからである。1995年の少女暴行事件しかり、2009年の民主党政権誕生後の普天間基地移設問題しかりである。
<棘の背景:二つの歴史>
 沖縄と米国との関係には、本土とは異なる二つの歴史がある。一つは、太平洋戦争末期、沖縄本島で繰り広げられた米軍との沖縄戦である。数か月(1945年4月1日~6月23日)にわたる激戦は、沖縄県民に多くの犠牲をしいた(役20万人の戦没者のうち半数以上が沖縄県出身者)。想像を絶する戦いである。今でも、島のあちらこちらに、その跡があり、自然と手を合わせたくなる。
 もう一つ、本土と異なる歴史は、1952年に日本が米国(GHQ)の占領から独立した後も、沖縄は、米国の統治下に置かれたことである。それから沖縄が日本に復帰するには、1972年まで20年かかった。終戦後の1945年から1972年までの27年間に、沖縄の米軍基地が固定化してきたことは否めない。
<沖縄県民と米軍との良好な関係>
 「沖縄は日米関係の棘」と言うと、まるで、沖縄が日米関係のマイナス要因になっているような印象を与える。しかし、沖縄は、逆に、「日米関係の光」として、プラス要因として考えることも出来るのではないか。筆者は、今回の沖縄訪問を終えて、そんなことを思った。
 2010年3月29日、筆者は、那覇で、春の選抜高校野球で、沖縄の甲南高校がベスト8に進出する瞬間をテレビで視た。そして、「もしかしたら優勝するかも」と思っていたら、それが現実となった。現在、米国の大リーグでは、イチロー、松井、松坂等、日本の野球選手が活躍しているが、実は、沖縄の高校が野球に強いのは、米具の存在と無関係ではない。嘉手納基地近くの嘉手納高校も有名である。そして、キャンプ・シュワブの初代中隊長のテイラー大尉が少年野球チームを結成したこともあった。甲南高校に関しては、米軍がヘリコプターを提供して、練習試合のある石垣島(那覇から約400㎞)まで送迎したこともあるそうだ。
 野球のみならず、沖縄駐留の米軍が沖縄県民等のために尽くした例は少なくない。今回、沖縄を訪問して、幾つかの美談を聞いたので紹介する。一つは、臓器移植の話である。2000年11月、キャンプ・キンザー(海兵隊基地)のパケット司令官が、脳梗塞で倒れ、脳死と判定された。パケット大佐は、かねてから、「万一の時は、沖縄を愛した証として、臓器沖縄県民および日本人に提供したい」と話していたことから、遺族は、大佐の臓器提供を申し出た。その結果、大佐の腎臓と角膜は、福岡、熊本及び沖縄の患者さんに提供された(恵龍之介「尖閣、沖縄が危ない!」『諸君』2006年5月号参照)。)この大佐の遺志を継ぐ米軍関係者は多く、彼らの中には、自分の子供が亡くなった時に、日本で、その臓器を提供したものもいたと聞いた。心に響く話である。
 もう一つ、米軍兵士が沖縄県民の命を助けた話も聞いた。ショッピング・センターの前で、心臓麻痺で倒れた沖縄県民を、通りがかりの海兵隊の将校が蘇生をして命を救ったという話である。このような例は一件ではない。交通事故で瀕死の重傷を負った若者を、救命隊員が来るまでの間、米軍兵士が蘇生をして、一生を取りとめたこともある。この若者の父は、反基地運動家であったが、この出来事以来、反基地運動を止めたそうである。この他にも在日米海兵隊は、海岸の清掃等のボランティア活動、地域との交流事業(年1500回以上)を行ない、地元の「良き隣人」になろうとしている。また、アメリカ婦人福祉協会は、ギフトショップの売り上げを、10年間で200万ドル(約2億円)、沖縄の慈善事業に寄付している。
 このように、沖縄県民と米軍との関係は、決して負の側面(棘)ばかりではなく、プラスの側面(光)もある。
(以上2010年4月記)

 また、沖縄訪問で、何人かの方々にインタビューをさせて頂いたメモの中に、次のような記述を見つけた。
 「沖縄戦の慰霊の日には、米軍基地内でも慰霊祭が挙行される。その際には、米軍の犠牲者のみならず、沖縄そして日本人の犠牲者も追悼する。牧師の祈りの他に、必ず、日本国歌「君が代」が吹奏される。1968年、ある沖縄県民が父に連れられ参列した時も、米陸軍音楽隊が最初に「君が代」を演奏したのを記憶する。それは、沖縄県民及び日本軍が立派に戦ったことへの崇敬の念である。」

 この日本人の戦いぶりへの「崇敬の念」は、筆者が、2014年12月、パラオ共和国の激戦地ペリュリュー島を訪問した時にも感じた。圧倒的に優位だった敵の米軍に対して、一生懸命、家族や国を守るために戦った日本人の生き様は、相手への伝わったのだろう。

  本日、沖縄慰霊の日には、糸満市摩文仁の平和祈念公園で式典が挙行される。戦没者の氏名が刻まれた「平和の礎」の前方に広がる海は青く美しいが、何故かとても切なくも感じられる。祈りの手を合わさずにはいられない。

 今日6月23日は、偶然にも、1960年1月に岸信介総理がアイゼンハワー大統領と合意した「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障に関する条約」が発効した日でもある。本年は60周年にあたる。一般に「日米安保約」と呼ばれるが、正式な条約名にもあるように、条文の記載でも、この条約は、安全保障のみならず、日米両国民の福祉の向上や経済協力も謳っている。

 「昨日の敵は今日の友」。75年間、日米間の絆が育まれてきたからこそ、そして60年間、日米同盟が安定に発展してきたからこそ、日本はある程度平和と繁栄を享受できたのだと思う。英霊に、先人に、そして皆々様に感謝する。

 6月23日は、「平和の祭典」と呼ばれる古代のオリンピックを、近代復活させることが1894年にパリのソルボンヌで決まった日でもある。これについては、拙著『オリンピックと日本人の心』(内外出版)又は "The Olympics and the Japanese Spirit"(22世紀アート、英語版)をお読み頂きたい。


  

2020年6月13日土曜日

日本文化から見る新型コロナ対策

 新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、日本では4月8日に緊急事態宣言が発出され、5月26日に解除された。日本の外出制限は、他国のような強制的禁止ではなく、自粛、協力要請という緩いもので、当初は、その効果が疑われたが、幸い、医療崩壊を起こすことなく、全国民の一致団結した努力により、感染爆発を防ぐことができた。
 もちろん、新型コロナウィルス感染者は収束したわけではないので、まだ油断はできない.
が、気を引き締めてばかりいて息切れしてしまってもいけないので、次の第二波の到来に備えて、気を引き締めなおすためにも、一瞬息抜きの時間が必要だろう。
 そこで、日本文化の諸要素が、新型コロナウィルス感染防止に役立ったのではないかということを、少し元気づけのためにも語ってみたい。
 第一は、日本人のきれい好きが功を制した。家に入る時は、靴を脱ぐ等、外部の汚いものをなるべく内に入れないようにする。小さい時から、帰宅したら、すぐ手を洗いましょうと教えられている。レストランなどに入ると、すぐお手拭きと水かお茶が出て来る。小学校から高校まで、お掃除当番があり、毎日、自分達のお教室は、自分達で掃き掃除、拭き掃除等をする。あるミッション系の学校では、お手洗いまでお掃除させるそうである。お寺さんや神社でも、毎朝の修行?はお掃除から始まる。庭を掃いたり、廊下をぞうきんがけする。与謝野晶子が、總持寺を訪れた時、その床のピカピカのを見て、お堂に足を踏み入れるのを躊躇したと言われ、その時、「胸なりて われ踏みがたし 氷より すめる大雄 宝殿の床」と詠んだ。

  この事は、拙著『オリンピックと日本人の心』でも紹介した(132頁)。その中では、羽生結弦選手が競技前に、部屋をきれいに整えてから出かけること(133頁)、能楽師は能舞台を稽古前に磨くこと等も紹介した。
 日本人のきれい好きは、その衛生観念にも表れている。小学校や中学校では、時々、「衛生検査」があり、きちんとハンカチとちり紙を持ってきているか、爪が伸びていないかをチェックさせられた。お風呂には毎日入る習慣がある。水が豊富な国だからとも言えるが、湯船への入り方としては、たとえかけ流しの温泉であっても、必ずまず全身をきれいに洗ってから入る。最近では、海外からの方が温泉旅館等に宿泊することも多くなったが、身体を洗わずに湯船に入ってしまう人もいるらしく、英語や中国語、韓国語等で、大浴場の入り方の説明がしてある。
 この日本人の衛生観念については、かつて明治の頃、新渡戸稲造が台湾に赴任した時、農業政策や産業復興政策とともに、衛生観念をも教育したと、新渡戸基金の藤井茂理事長が、2020年3月15日号の『太平洋の橋』で書かれている。
 その台湾は、今回、新型コロナウィルスの感染防止対策を、日本よりも上手くやり、世界のお手本になった。日本国内では、今回、最後まで唯一感染者が出なかったのが岩手県だった。その岩手県は、偶然にも、新渡戸稲造の故郷である。
 日本文化が功を奏した第二の要素は、「間」の取り方である。今や世界で、感染防止に、Keep the social distance(人と人との間をあけて)と言われるが、こういう意識は、昔から日本にあった。日本人は、挨拶する時、抱き合ったり握手したりぜず、お辞儀で済ます。遠くから目が合うと、会釈だけして過ぎ去ることもある。「付かず離れず」の人間関係を大事にする。
 もう何年も前にあるが、今上陛下が皇太子時代にタイ王国をご訪問された際、長年タイに住んでいらした日本人の方が、現地の状況を説明されることになった。その時、宮内庁のお付の方から、何メートルも離れてご進講をするように言われ、理由を尋ねると、「唾が殿下にかかってはいけないから。」と言われたそうだ。その方は、ご自身は声が大きいからと納得されていらした。そういえば、日本には、「沈黙は金」という言葉があり、通常、おしゃべりする時でも、あまり大声は出さない。飛沫感染のウィルス予防には、このことはプラスに作用するだろう。咳エチケットも、特別なことではない。約40年前(1982年~1983年)のことであるが、フランスの中学校の社会科の教科書に、東京の写真が載っていて、マスクをしている人は、「公害がひどいから」と説明されていた。それを見せられた私は、すぐさま、「それは違う。マスクは、風邪を人に移さないようにしたり、移されたりしないように、している。」と訂正を求めた。
 「距離を取る」ことを、「空間を取る」と言い直しても良いが、これは、日本文化の様々な所に生きづいている。日本画や書道や生け花等、一つの空間にたくさんのことを詰め込まない。白い部分を残して、それこそ「空間」を大切にする。ごちゃごちゃと賑やかに書いたり、配置したりしない。華やかさに欠ける、「侘びさび」の文化と形容できよう。「蜜集」、「近蜜」は好まれないのである。
 そこから、第三の要素、「風通しの良い」文化にもつながる。日本語の「風通が良い」という言葉は、物理的に空気の通りが良いという意味の他に、人間関係が良い、透明性が確保されていると言う意味もある。前者では、例えば「風通しの良い家」と言えるし、後者では、「風通しの良い組織」ということが挙げられる。日本では、古くから、「家は夏をむねとして立てるべし」と言われてきた(拙著英語版" The Olympics and the Japanese Spirit"135頁)。

縁側があり、外に開かれた家屋を建て、家の中は畳敷きで家具はほとんどなく、部屋の仕切りも、厚い壁ではなく、障子で影や光が透けて見える。固い煉瓦や石で閉ざされた空間はなく、「密閉」されていなかった。木の文化は、水も風も通す。
 「令和」の御代に生きている私達、日本人だが、令和の元号のもととなった出典の万葉集の歌は、「初春の令月にして、氣淑く(よく)風和ぎ」である。ここにも「風の文化」が登場する。そして、今上陛下が、令和2年4月10日、新型コロナウィルスについて述べられたお言葉は次のようなものだった。
「この度の感染症の拡大は、人類にとって大きな試練であり、我が国でも数多くの命が危険にさらされたり、多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後、私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、f現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。」
 この「心を一つにして力を合わせながら」とのお言葉から、筆者は、新渡戸稲造の'Union is Power'という揮毫を想い出した。
 日本人が、そして世界の人々、人類が、心を一つにしてこそ、力が発揮でき、猛威を奮う感染症に打ち克つことが出来るのではないか。そんなことを思った。

 上記のこと、その他のこと、令和2年5月25日の日本文化チャンネル桜の番組「フロント・ジャパン桜」で語っています。是非、ご覧下さいませ(1時間3分~1時間25分位)。