本日、令和5年9月14日(日本時間)、下記の国連本部で行われた献茶式についてのニュースが流れました。
未来を築く Building Our Future
鈴木くにこ(Kuniko Suzuki)オフィシャルブログ
このブログを検索
2023年9月14日木曜日
千玄室大宗匠と「和の心」@靖國神社
2022年2月11日金曜日
日本の多様性:フィギュア・スケーター、鍵山、宇野、羽生が見せてくれたもの
2022年2月10日、北京冬季五輪大会では、男子フィギュア・スケートのフリーの演技が行われ、メダリストが決定した。
金は米国のネイサン・チェン(22歳)、銀が鍵山優真(18歳)、銅は宇野昌磨(24歳)だった。史上初の4回転半のジャンプに挑んだ羽生結弦(27歳)は4位となった。
演技後の選手たちのインタビューは冷静で、淡々としていて、嬉しさを誇らしげに表現する子供の姿というものはなく、精神性の高さに、改めて尊敬の念を深めた。
同じ日本人の選手でも、その個性はそれぞれ全く異なるのは、演技からも分かる。その多様性が、今回、2位、3位、4位を占めたこと、エキジビションにも選ばれ、見ているものを楽しませてくれる存在である。
3人の演技の後、ある三重県の方が、「鍵山選手の初の挑戦、宇野選手の難しい挑戦、そして羽生選手の限りなき挑戦、有難うございました。」というような投稿をしていた。同じ挑戦でも、それぞれ異なる色彩や音や人生の挑戦だったのだろう。
その美しい演技の背景に、並々ならぬ努力があること、それはスケートの練習のみならず、日々の生活にも生じていたことに、多少触れておきたい。
鍵山優真選手:お父様の鍵山正和コーチは、元オリンピックのフィギィア・スケーター(1992年のアルベルビル大会、1994年のリレハンメル大会で13位、12位)で、日本選手としては初めて4回転に挑戦したと記録されている。そういう意味では、鍵山選手は、サラブレッドである。しかし、鍵山選手がまだ中学2年生の時に、お父様は脳梗塞で倒れられたそうで、今でも杖をついたり車椅子で移動することもあり、鍵山選手がその車椅子を押す姿が伝えられる。「メダルを父に捧げたい」という言葉には、様々な思いが込められているのだろう。
宇野昌磨選手:平昌大会(2018年)の銀から、今回は銅ではあったが、内容的には難易度を上げて挑戦。この4年間、20歳から24歳になる過程で、宇野は、「これからは自分で自分のことを決めたい。」とコーチを付けずにやってきたこともあるが、挫折を味わい、引退をも考えたことがあったと言う。その時、自分から、ステファン・ランピエール(トリノ五輪銀メダリスト、スイス出身)氏をコーチに復活したいと思い、頼んだそうだ。二人の相性はぴったりだったことは、今日の結果と、今後への宇野の意気込みで分かる。
羽生結弦選手:今回、演技後の得点を待つ席で、プーさんがお目見えしなかったのみならず、羽生選手は、コーチが脇に座ることなく、1人で座っていた。コロナ禍でトロントを発って帰国してから、羽生は、多少個々の助言はもらっていたとしても、(おそらく決まったコーチとの契約はせず、)自らの責任で、自らの練習等をしてきたのだろう。
小学2年生から高校1年生まで羽生選手を指導したという都築章一郎コーチによると、五輪の直前まで、羽生選手は、仙台のリンクで、夜遅くまで、1人で練習していたそうである。誰でもそうだと思うが、1人の練習、自分だけの辛さ、弱音を吐かないこと等、孤独との闘いでもある。羽生選手は、2011年の東日本大震災では、自らも被災している。また、度重なる負傷や、コロナ禍での苦悩……。その中でも、人を思い、自ら、人のために尽す精神が常にある。以下は、一つの例にすぎないが、羽生は、個人の資産を寄付することも長年続けている。遠征にはお金がかかるだろうし、(大資産家でもないだろうが、)彼の心がそうさせる。
羽生結弦が故郷リンクに211万円寄付 3千万超え - フィギュア : 日刊スポーツ (nikkansports.com)
(→ こんなに大事なスケート・リンクの維持・運営には、国や県が資金を投じるべきではないだろうか。または、羽生個人ではなく、大企業や大資産家の支援があっても良さそうである。)
羽生選手は、今回、ショート・プログラムの失敗と4回転半が成功できなかった自分の演技と結果に対して、「努力は報われなかった。」と述べた。
ここで、羽生選手の事も書かせて頂いた拙著『オリンピックと日本人の心』の「おわりに」で引用した大野将平選手(柔道金メダリスト)の監督だった穴井隆将氏の言葉を思い出した。
「報われない努力はあっても、無駄になる努力はない。」
羽生選手の努力と挑戦は、フィギィア・スケートの歴史上、「4回転半」の認定という形で、新たな道を開き、無駄にはならなかった。
羽生選手が選んだ曲「天と地と」は、軍神といわれた上杉謙信を主人公とした大河ドラマのテーマ曲だと言う。下記に、上杉謙信が武将であるとともに文人であったことが書かれている。
羽生選手、謙信を重ねて 軍神宿る「天と地と」〔五輪・フィギュア〕:時事ドットコム (jiji.com)
この2月、全国の神社に掲げられた毎月の「生命の言葉」が、何と、上杉謙信の言葉だった。「心に物なき時は 心広く 体泰(やすらか)なり」
そして、山王日枝神社に掲げられた明治天皇の御製(2月のことば)は、
「おほぞらに そびえて見ゆる たかねにも
登ればのぼる 道はありけり」
まだまだ頂上に至る道は続くようである。
2022年2月4日金曜日
石原慎太郎先生の想い出
2月1日、石原慎太郎先生の訃報に触れ、また一つ時代の頁がめくられた気がした。
作家、元都知事、元国会議員等、様々な顔を持たれた
石原慎太郎先生。最期まで現役を貫かれ、筆を離さなかったそうだ。
かつて日本では、男性の雰囲気を単純に二つに分け、「ソース顔」、「醤油顔」、どっちが好み?等と聞くことがあったが、
石原裕次郎ファンが大勢いる中、
石原慎太郎ファンも多い。筆者も、
石原慎太郎先生を、恰好いいと思った一人である。
初めて目の前でお目にかかってそう思ったのは、確か、
1993年10月4日頃、中山太郎衆議院議員(元外務大臣)にお供して秘書として初めて勤務した日、清和会(自民党福田派)の幹部会があり、その直後であった。
まだ20代だった筆者は、緊張して廊下で会議が終わるのを待っていると、中から、
石原慎太郎先生、森喜朗元総理等、テレビで拝見していた方々が、目の前にぞくぞくと表れる。廊下には私以外誰もいないので、皆様がお通りになる度に目が合ってしまい、ただただ無言で会釈をしたのを覚えている。
廊下の先の小部屋には、福田赳夫元総理がいらして、中山太郎先生が、筆者を、「この人、外務省でフランスにいたんですよ。」と紹介下さると、福田赳夫大先生は、「オー、マドモアゼル」と声をかけて下さった。
石原慎太郎先生は、言動もかっこよさがあり、目だっていらしたかもしれないが、
ただ、その風貌のみでも、背がすらっとして、見栄えがした。
筆者が仕えた中山太郎先生と
石原慎太郎先生は、単に清和会でご一緒だったいうのみならず、少なからず共通点があった。お二人とも、参議院から衆議院に鞍替えされた。お二人とも、執筆し本を出版される。
現場主義で、実物を見にフットワークも良く、若い時から海外にもよく行かれていたようである。そして、派閥政治よりも、ご自身の個性や、国を主軸に考え、政治行動されていた。
そして、家族思いでもあった。
そう思って書いていたら、以下のサイトで、1994年1月26日の写真を見つけた。自民党のベテラン議員が、派閥による分裂に危機感を持ち、「無名会」として集まったとした写真を見つけた。映っているのは、石原慎太郎、中山太郎、小渕恵三、渡部美智雄、武藤嘉文の各先生である。
当時は、自民党が第一党であるにかかわらず、連立を組めず野党に転落し、バブル後の日本は、政治的にも経済的にも、不安定な時期であった。国家の行く末を憂えた先生方の姿として映る。今や、この5人のサムライのうち、ご健在なのは、
96歳の中山太郎先生のみになってしまった。
石原慎太郎 > 政界へ進出 TV・出版・報道向け写真ならアフロ | 写真素材・ストックフォトのアフロ (aflo.com)
筆者が永田町に勤務する間に、驚いたニュースの一つが、
石原慎太郎先生の突然の国会議員の辞任であった(1995年4月14日)。
国会議員25周年勤続は、国会の委員会室に肖像画が掲げられる程、名誉なことであるが、
そのお祝いすべき本会議の演説で、
石原慎太郎先生は、突然、議員を辞職することを発表されたのである。正直、ショックだった。
しかし、ご存知の通り、
石原慎太郎先生は、都知事として政界に復帰。その手腕は存分に発揮された。
特に印象深いのは、尖閣諸島に関して、それを守るべく、個人から都が買い取ることを米国で発表し、その資金を、多くの善意の国民から集められたことだ。結局、国が買い取ることになったが、もし
石原都知事の主導力がなかったら、とっくに中国に取られてしまっていたかもしれない。
石原都知事は、良き、信頼できるブレーンを、日本の首都、東京をより良くするために引き入れた。その一人が、猪瀬直樹副知事であり、また、都民や国民の命を守る役割を担う、災害、危機管理担当の元陸上自衛隊の志方俊之陸将である。両者とも、筆も達者な、まさしく「ブレーン(頭脳)」であった。
2003年か2004年頃、筆者が東京大学特任助教授として、御厨貴研究室の「安全・安心プロジェクト」に関わっていた時、東京都で天然痘テロ図上演習が開催されたことがあり、見学をさせて頂いた。都庁内で行われたシミュレーションで、訓練の中で、記者会見の部分では、石原都知事自らが参加された。遠めに拝見させて頂いたが、記者達の質問よりも、先を行くのが
石原都知事であった。
石原慎太郎先生は、信念の人、行動の人、そして人生を楽しんだ方だったと思う。
国の将来を思う気持ちは人一倍で、自分にも人にも正直に接した方だったような気がする。ユーモアやお茶目な面もある。
石原慎太郎先生が、コロナ禍においても、一時、膵臓がんを克服された時の手記が下記、文春に出ていた。人生の大変さ、面白さを書いたものでもある。
元東京都知事・石原慎太郎氏が“87歳での膵臓がん”との闘いを告白した手記「まさに丁か半か。私の運命の分かれ目」(文春) - Yahoo!ニュース
元東京都知事・石原慎太郎氏が“87歳での膵臓がん”との闘いを告白した手記「まさに丁か半か。私の運命の分かれ目」 | 文春オンライン (bunshun.jp)
今回の訃報は、とても悲しいが、
石原慎太郎先生は、「今ある人生を精一杯生きろ。」と私達に語りかけて下さっている気がする。下記の亀井静香先生の言葉が、とても印象的である。
まず、お読み頂きたい。
石原慎太郎が盟友・亀井静香に病床で語った最後の言葉 「涙を流しながら『また会おうな』と」〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース
日本は、天照大神様を祖先とする国家である。
『太陽の季節』で一世を風靡させた石原慎太郎先生。
「太陽は沈んだけど、陽はまた昇る。石原慎太郎は日本人の心の中にいつまでも残り、彼は永遠に生きていくんだよ」
いつまでも、格好よく、私達に、励まして下さる存在。
石原慎太郎先生、有難うございました。(合掌)
2022年1月14日金曜日
海部俊樹元総理の想い出
本日、2022年1月14日、海部俊樹元総理の訃報に接した。海部元総理は1月2日に91歳のお誕生日をお迎えになったばかりで、9日にご逝去されたことが、本日公表された。
本日、たまたま靖國神社参拝の帰り道、かつて平成元年前後に海部総理ご夫妻が住んでいらしたマンションの前を通りかかった。
確か、そのマンションの最上階のお住まいで、一度、お宅を訪れたことがある。
当時、私は、外務省の国際報道課に勤めており、海部総理が訪米される前に、現地の大手新聞ワシントン・ポスト紙(Fred Hyattt東京支局長)がファースト・レディである海部総理夫人をインタビューしたいということで、そこに同席したのである。
とても良い雰囲気の中でインタビューが行われ、お抹茶が出されたが、私は緊張のあまり一服も出来ずにただ帰ってきたのを覚えている。
さて、平成元年と言えば、日本では総理が2回変わり、海部総理は3人目だった。
1月7日の当ブログで書かせて頂いた「昭和天皇の大喪の礼」の時、弔問外交の中心にいらしたのは竹下登総理である。そして、同年(1989年)夏のG7(先進国首脳会議)アルシュ・サミットでは、宇野宗佑総理がパリに赴き出席された。竹下総理はリクルート・スキャンダルで、宇野総理は女性スキャンダルで退陣に追い込まれ、選挙では消費税等が争点にマドンナ旋風が吹き土井たかこ率いる社会党が躍進した時だった。
そんな時、お金でも女性でも大丈夫な総理、閣僚が就任することになり、クリーンな海部総理、中山太郎外務大臣が登場する。すなわち、「大物」「有名」政治家が影をひそめていなければならない時代だった。
当時、日本はバブル真っ最中で、米国進出もすさまじかった。米国では健康志向で日本食ブーム、アボカドを巻いたカリフォルニア巻き寿司や豆乳を使ったアイスクリーム「トフティー」が売り出された。
海部総理が就任した直後、外国人記者からは、「Kaifu, Tofu, Who is who?」などと、竹下総理に比べて「無名」の海部総理に対して、質問が多数出た。ある米国の新聞では、竹下総理のマリオネットというような記事が出た。
昭和から平成、総理3人、天安門事件から、ホメイニ師の死去、ベルリンの壁の崩壊まで、激動の1989年を経て、1990年(平成2年)夏はイラクのクウェート侵攻、1991年(平成4年)初頭はイラク戦争が勃発。日本は世界第2位の経済大国として財政支援をするも、人的貢献をせず、クウェートの感謝広告に「Japan」の文字は見つからず、これを契機に「平和協力法」が制定され、自衛隊が本格的に海外に出るようになった。
ちなみに、今年は、初めて自衛隊がPKOの一員としてカンボジアに派遣されて30年となる。
私がパリに赴任中、宮澤喜一総理が訪仏された。その際、野党の牛歩戦術等で大変だった「平和協力法」(自衛隊を海外派遣させるための法律)の成立に尽力された政治家及び自民党職員の方が同行された。ほんの少し、滞在中のお世話をさせて頂いた。
私は、外務省を退職後、貿易会社を経て、ご縁あって中山太郎衆議院議員(元外務大臣)の秘書となった。当時、自民党は、第一党でありながらも連立に失敗し、八党派の細川政権が成立した。細川内閣は総理のNTTスキャンダルで崩壊し、その後、羽田内閣が成立するが、社会党を連立から追い出したことで短命に終わった。
その後、反自民で細川内閣や羽田内閣成立の立役者であった小沢一郎衆議院議員は、新たな総理候補を、自民党議員から選んで、自民党を崩して新たな政権を立てようとしていた。
実は、その白羽の矢を最初に立てられたのが、中山太郎先生だった。衆議院議員中山太郎事務所は、当時、秀和TBR永田町ビル(現在のAPA国会議事堂前ホテルがある辺り)の中にもあり、そこには、佐藤守良衆議院議員(広島県出身)が、小沢一郎先生の「密使」として、足しげく通っていらした。中山太郎先生に、総理候補となることを説得するためであった。
ビルの一階にあったお蕎麦屋さんからお蕎麦(山かけ)を注文して、お二人でじっくりお部屋で会談、懇談されていた。とても仲の良い雰囲気だった。同ビルには、竹下元総理や宮沢元総理の事務所もあり、そして海部元総理の事務所は、中山太郎事務所の真下に位置した。海部元総理と中山元外相はご夫妻で現役時代に外遊する等したことから、ご夫妻で親しくされていた。
中山先生に小沢一郎先生が白羽の矢を立てていたことは、雑誌フォーカス(またはフライデー?)に書かれたこともあった。が、結局、中山太郎先生は、自民党離党が条件だったので、よく考えた末、自分を育ててくれた自民党を裏切るわけには行かないと、「信頼の問題だ」として、佐藤守良先生(小沢先生)のお申し出を丁重にお断りした。
そして、佐藤先生が、その後、すぐ下の海部事務所に訪問されることになった。
総理指名の投票が国会で行わるその日、速報で海部元総理が自民党を離党して出馬することが報じられ、永田町周辺は、票読みのできない「熱っぽい」空気に包まれた。自民党としては、与党に復帰するには社会党の協力がいる、村山富市党首を総理候補にするしかない、ということになった。
中山太郎先生始め、自民党の多くの議員の先生方にとって、それは苦渋の選択だった。イデオロギーは異なる、昨日まで敵対していた野党の党首、そんな人の名前を投票用紙に書けるか、という思いだった。ただ、「信用」、「信頼」の問題だった。もうお互い、自民党も社会党も裏切られることはまっぴらだった。そして成立したのが、自社さ連立政権である。
中山太郎元外務大臣は現在96歳でご健在である。
先生とご一緒に歩ませて頂いたほんの歴史の一部、真実を書き残しておきたいと思う。
2022年1月7日金曜日
七草の想い出とともに、昭和天皇の崩御から33年
まず、3年前の1月7日に書いたブログをお読み頂きたい。
未来を築く Building Our Future : 七草の思い出 (kunikosuzuki.blogspot.com)
そして、昨年、昭和天皇崩御に関わった際に頂いたアルバム『昭和天皇大喪の礼写真集』が見つかったので、それの一部をご覧頂きたいと思う。
2021年12月31日金曜日
東京五輪・パラリンピック2020(+1)を終えて
東京五輪・パラリンピックを終えて本年(2021年)9月23日に書いたブログ、何となくアップせずに、今日(12月30日)になってしまった。
年末を迎え、やはり記録を残して公表しておきたいと思った。よろしければご笑覧下さい。
どうぞ良いお年を。皆でより良い新年にして行きましょう。
ーーーーーーーーーーー
東京オリンピック・パラリンピック2020は、新型コロナウィルスの世界的蔓延により1年延期となった。2021年7月23日に東京オリンピックが開幕し、(8月8日に東京五輪閉幕の後、8月24日に開幕した)東京パラリンピックが9月5日に閉幕し、一連の東京オリ・パラの一大イベントは終了した。
「終わり良ければ全て良し」という言葉があるが、あまりに色々と紆余曲折のあった東京オリ・パラだった。が、コロナ禍という大変な環境の中で、大きな台風、地震、テロ等に見舞われずに無事終了したことは、多くの日本人が安堵したことだろう。
思えば、2013年、東京でのオリ・パラ開催が決まった日、新聞が号外を出すほど、日本中が湧いた。2011年に東日本大震災という未曽有の大規模災害を経験した日本にとって、大きな希望と夢を与えてくれた瞬間だった。そして、「復興五輪」と名づけられるほど、被災地の方々を勇気づけた。
筆者は、津波の最大の被災地となった石巻市の市民の方が、「1964年の聖火台を被災地へ、聖火リレーの出発点を石巻へ」という運動をされたり、復興祈念公園の構想を練ったりされている時に、少なからず相談を受けた。そのご縁から、2015年2月28日~3月1日、仙台から東松島市を通って、石巻市、さらに女川町まで足を運んだ。2018年3月4日には、1964年東京五輪の聖火台が設置された石巻を訪れ、聖火台を磨きつつ、室伏広治選手にオリンピックの意義を伺った。
2018年6月23日(オリンピック・デー)に、筆者は、『オリンピックと日本人の心』
(内外出版)を上梓した。
オリンピックと日本人の心 - 内外出版株式会社 (naigai-group.co.jp)
本書は、日本文化チャンネル桜を始め、デモクラTV、Noborder、チャンネルくらら等各種ネット番組やTBS系ラジオ「日本のかたち」で紹介された。
2019年からは、「オリンピックと日本人の心」をテーマに講演を依頼されるようになった。ロータリー・クラブ等の他、大阪の由緒ある綿業倶楽部、五輪の選手を輩出している自衛隊体育学校、中小企業の経営者団体、足利大学等である。2020年初めには、港区で開催されたイベントで、馬術連盟及び陸上連盟の幹部をお呼びしてシンポジウムを行った。
2019年初め、拙著『オリンピックと日本人の心』を英訳したいとの願ってもみないお申し出を頂いた。日本語原稿を読み直し、英語すなわち外国人用に多少書き変え、2019年に完成した新たな国立競技場についても書き足した。猛暑の中、ロバート・エルドリッヂ先生とお弟子さんが翻訳を仕上げて下さった。2020年、22世紀アートから"The Olympics and the Japanese Spirit"として出版され、世界各地で読めるものとなった。
The Olympics and the Japanese Spirit | Suzuki Kuniko |本 | 通販 | Amazon
2020年の新型コロナ・ウィルスの世界への蔓延は、100年前のスペイン・インフルエンザを想起させる恐ろしいものだった。当初、比較的上手くコントロールしていた日本であり、3月20日には聖火がギリシアから日本の航空自衛隊松島基地(宮城県、ブルーインパルスの本拠地)に到着した。日本では東京オリ・パラ2020をまだ開催できるとの意見もあった。が、筆者は国際的コロナの蔓延を見ていて、日本だけが良ければいいのではない、東京オリ・パラは中止ではなく延期すべきだと主張した。
未来を築く Building Our Future : オリンピック延期の検索結果 (kunikosuzuki.blogspot.com)
そして実際、2020年3月24日、東京オリ・パラ2020は一年延期されることになった。コロナの猛威はなかなか止まなかった(いまだに止まない)。日本国内では、東京オリ・パラは中止すべきとの声まで上がった。が、1年を経て、国際社会は、少しずつコロナへの対処法を学び、アスリート達の希望もあり、コロナ禍の東京オリ・パラ開催を歓迎した。
その結果が、2021年7月から9月にかけての東京オリ・パラの開催であった。
筆者は、アルバイトやボランティアの一員として、現場でお手伝いをさせて頂いた。オリ・パラの組織図から言えば、全く底辺部分での役割である。逆に、だからこそ、何となく全体が見えた。様々な人と接し、権力と関係ない一般のボランティアの人達が、問題山積みの現場を正常に動かすことに尽力していることが分かった。
東京オリ・パラは「無観客」で行われた。「有観客」となったのは、宮城県と静岡県のみだった。当初、東京で予定していた筆者の仕事も無観客でなくなった。が、急遽、宮城で仕事をさせて頂くことになった。7月19日に話が決まり、7月20日夜、宮城に入った。
宮城スタジアムでの7月末のサッカーの競技。地元の方々が、観戦を楽しみにいらした。
五輪の延期でいらっしゃるはずの家族のお一人が亡くなり、代わりの方が来られるケースもあった。なでしこジャパンが出場した後、選手たちが残した言葉があった。
「有観客で有難う。」の一言だった。
なでしこ「有観客ありがとう」 宮城スタジアムにメッセージ | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS (kahoku.news)
外国の選手たちの泊まるホテルに飲食を届ける地元の若いボランティアもいた。
コロナ禍で、外に出られない選手たちに、精一杯の「おもてなし」をされたのだと思う。
宮城での仕事は、朝から晩まで、宿泊先に戻るのがほぼ深夜になることが殆どだったが、地元の人達、日本にいる留学生(中国、フランス、カナダ等)、全国各地(北海道、関東、関西等)から駆け付けたスタッフの皆さんと仲良く楽しく協力して仕事が出来、とても充実した日々だった。
試合のなかった7月29日には、たまたま東松島の航空自衛隊基地でブルーインパルスの飛行訓練が行われるというので、仕事で知り合った友人と出かけた。広い東北の空をのびのびとダイナミックに飛行し、大きな円(輪)を描いていた。
津波で町が流され最大の被災地となった石巻市の復興祈念公園にまで足を伸ばした。駅前も人影は少なく、公園も閑散としていた。ただ、当時の様子を伝える小さな小屋があり、私達は中に入り、静かに展示を拝見した。
「コロナ五輪」となり、「復興五輪」はどこかに置き去りにされてしまったような東京オリンピック2020(+1)だった。が、不思議と私には、思いもかけず宮城に来る機会が訪れ、最終日の7月31日には、仕事を終え、仲間たちと、ふと再び石巻に来て、あの日和山公園(神社)から、町々の灯を暗い夜中に見ることになった。
東北の人々の温かさ、優しさ、辛抱強さ、たゆまない努力、言葉で表せない精神性、そして魂が、暗闇の中の光(希望)となって、語りかけているような気がした。
「ありがとう。」そんな気持ちを残して宮城を後にした。
東京では、7月25日にボランティア活動に入ったが、「オリンピック・ファミリー」のアテンドの仕事が、研修時の話のようには組織的に出来る状況になかった。あまりの混乱に、一日でボランティアを辞めた方もいたが、殆どの方は、どうにか物事を上手く回さなければならないと必死になって創意工夫し協力した。その成果あり、次第にスムーズに事が運ぶようになった。もちろん最後まで試行錯誤で相談しながらだったが、全く初めて会った者同士がチーム・ワークで互いに協力して、乗り切った日々だった。
「コロナ禍の五輪」、筆者は、まさにそのど真ん中にいてしまったようだ。コロナの禍を受けて、東京オリンピックの閉会式の前日、8月7日に発病した。幸い軽症で済んだが、とにかく他人に感染させないように最大限の注意を払って隔離生活を送った。幸い、濃厚接触者を含め1人も私から感染させた人はいなかった。安堵した。
東京バラリンピックのボランティアはどうなるかと思ったら、「大丈夫ならやって下さい。」と医療従事者から言われ、組織委員会からも、「それなら開閉会式のお手伝いを。」ということで、実際、閉会式に関わる事が出来た。
東京パラリンピックの閉会式では、日本の国歌「君が代」の他、次回の開催国フランスの国歌も流れた。高校時代にフランスに留学した筆者にとって第二の故郷のようなフランス。
ここでも不思議な因縁を感じた。
各国の方々からは、「アリガトウ」と声をかけられた。これは、私への御礼の言葉というよりは、滞在中に多くの日本人から受けた「おもてなし」へのARIGATOだと受け取った。
何でもない日本人の優しさ、丁寧さ、相手への思いやり、東京オリンピック・パラリンピックの参加者達には、通じたようである。
2021年7月11日日曜日
聖火リレー、日本をつないだ、心をつないだ
3月25日に福島を出発した聖火は、全国をくまなく滞りなく、予定通りの日程で回り、最終目的地の東京に、7月9日に無事、到着した。
これで、日本全国がつながった。一人ひとりの思いが皆の思いとなり、日本の空気、日本の風景、日本人の心を運んでくれた。
これから7月23日までの15日間、聖火は広い東京都内を駆け巡る。コロナ禍で公道でのリレーは全て中止となったが、それでも人々は、希望の火をつないで行く。
最近は、コロナ・コロナで、東京オリンピックは中止か、開催なら無観客か等が大手メディアの関心事項になっているが、ふと、以下の聖火リレーに関する動画を見つけた。
まずはご覧頂きたい。
東京2020オリンピック聖火リレー特別映像 「想いをのせて、ともに走ろう。」 (olympics.com)
「いのち」って何だろう。コロナで怖いのは、いのちが危険に晒されること。たとえ感染しても命に別状なければ誰も怖がらない。
では、10年前に日本に起こったことは何だろう。津波で一瞬にして最愛の家族を亡くし、仕事や住む家まで亡くした方々。そして、いまだに行方不明の方々。
コロナで苦しみ、死に目に家族と手を取り合えないのも悲しい。
同様に、あっと言う間に津波に呑まれ、行方不明のままの家族がいるのもやりきれない。
何も語ることも、苦しむ姿も見せないまま、この世から、人々の前から去ってしまった。
やるせない気持ち、どこに持っていくこともできない。
「東京オリンピック・パラリンピック」の理念?意義?何のため?
止めたら、無観客なら、何かいいことあるのだろうか。
コロナ対策なら、もっとやるべきこと、あるはずでしょう。
日本をつないでくれた聖火、それを運んでくれた一人ひとり、見守った一人ひとり、「聖なる火」とともに祈りたい。
Hope lights our way. (希望が道を照らす)
あの笑顔で去ったあの子のために、
色々な思い出を残してくれたこの人のために、
感謝を込めて、鎮魂の祈りを捧げたい。
もうすぐ、東京には、新盆がやってくる。
-
本日、令和5年9月14日(日本時間)、下記の国連本部で行われた献茶式についてのニュースが流れました。 千玄室さん 国連本部で献茶式 世界平和祈りお茶をふるまう | NHK | 国連 驚きました。丁度、本日、靖國神社で参拝を終え、境内の日本庭園で、 千玄室先生が奉納された「和の心...
-
2月1日、石原慎太郎先生の訃報に触れ、また一つ時代の頁がめくられた気がした。 作家、元都知事、元国会議員等、様々な顔を持たれた 石原慎太郎先生。最期まで現役を貫かれ、筆を離さなかったそうだ。 かつて日本では、男性の雰囲気を単純に二つに分け、「ソース顔」、「醤油顔」、どっち...
-
2022年2月10日、北京冬季五輪大会では、男子フィギュア・スケートのフリーの演技が行われ、メダリストが決定した。 金は米国のネイサン・チェン(22歳)、銀が鍵山優真(18歳)、銅は宇野昌磨(24歳)だった。史上初の4回転半のジャンプに挑んだ羽生結弦(27歳)は4位となった。...