本日2020年6月30日は、香港基本法で2047年まで保証されるはずだった「一国二制度」が終焉した日と、世界は記憶するだろう。
香港で民主化を推進してきた人々は、涙を呑んで、民主派政党を解散させ、そこからの脱退を公に宣言して、明日からの新たな社会で、生活の生き残りをかける。「生きている限り、希望がある。」「絶望の先にも、きっと希望が。」、淡々と語る彼らの姿勢と、今までの行動に敬意を表したい。そして、彼らの生きる今後の世界が、より自由で民主主義的かつ思いやりのある社会になるよう、私達1人1人が努力すべきだろう。
私が初めて香港の地を踏んだのは、丁度40年前の1980年の12月。ガール・スカウト(香港では、「女童軍」と記していた)の国際行事、International Gatheringに参加するためだった。テーマは、東西文化交流、East-West Encounter。当時の香港は、英国の統治下で、至る所で異国情緒を感じることができた。島にある大きなキャンプ場で、世界各地から集まったガールスカウト、ガール・ガイドの友人達と寝泊りし、仲良くなった。香港の友人が、きれいな英語で、寝る前に「清しこの夜」Silent Night, Holy Niightを歌ってくれたのを覚えている。朝起きた時の挨拶、「ゾウ(早)サン」は、発音が「象さん」と似ていて、すぐ覚えた。それから、有難うを示す「多謝(トウチェイ)」も好きでよく使った広東語である。北京語の「謝謝(シェイシェイ)」よりも、もっと感謝がたくさん多くある意味合いで気に入った。キャンプ場で食べた朝ごはんの御粥の味と雰囲気も忘れられない。チキンの骨を取り出しながら、鶏だしのきいたお粥を外で頂いた。12月だが温暖だった。香港人の友人とたくさんと過ごし、とにかく楽しかったが、キャンプ場で、ふっと英国統治を感じることがあった。閉会式が開催された広い運動場にヘリコプターで降り立ったのが、西洋人のシルバー・グレーの紳士。行事のスポンサーや主催者等「お偉さん」も、生粋の香港人ではない方が殆どだった。
2度目の香港訪問は、1995年。第二次世界大戦後50周年の年。そして、翌1996年夏にも、香港を訪問した。偶然、終戦記念日のパレードにあたった。一緒に見学していた中国専門家の友人が、「来年からは、人民解放軍がパレードするようになるのかなあ。やな感じ。」とつぶやいていたのを思い出す。
1997年7月の香港返還。ユニオン・ジャックが下された。そこから「一国二制度」が始まった。サッチャー英首相と鄧小平主席が交渉した香港基本法。本当は、英国は香港全土を返還する義務はなく一部は維持できたが、当時の英国は景気が良いとは言えず「小さい政府」で香港の維持費も節約したかったのだろう。長い交渉の後、サッチャー首相は、鄧小平主席のことを「タフ・ネゴシエーター」と呼び、ふらついたと言う。香港の民主制度と経済上の特別な地位は、50年間、すなわち2047年まで続くはずだった。国際社会は、中国も改革開放で資本主義を導入すれば民主化されると幻想を抱いた。結果は、逆だった。中国は外国資本や技術を導入し、資本主義の市場を相手に、著しい経済発展をし、それをもとに軍拡も推進し、共産党の力を増強した。1989年6月4日の天安門事件に見るように、中国内でも若者を中心に民主化運動はあったが、その都度、弾圧されてきた。1989年の天安門の時、弾圧から逃れ西側に亡命しようとする中国人たちを助け、その出口となったのは香港だった。
2011年12月、香港返還から約15年たった香港を再訪した。空港に到着した途端、すぐに中国化したことがわかった。近代化した大きな建物で出迎えてくれたのは、大陸の舞踊団の舞。入管の人の態度も何となく冷たかった。j街中もすっかり変わってしまった。異国情緒というよりも開発、開発。とにかく建物が乱立し、ブティック等が入った近代建築が所狭しと並んでいる。一方、意外と英語が通じづらくなっていたり、夜になるとバス停前で大陸から来た人が新聞を売ったり、公害や通りのごみ等が目立ったりした。香港では、何年か先まで、病院の出産予約がいっぱいだと聞いた。大陸の人達が、何とか「香港ステータス」を得て、いざという場合に備えたいのだろう。
そして2014年の香港の雨傘運動。民主化、「一国二制度」崩壊の危機を、香港の人達は、6年前に分かっていた。それでも中国の共産党は強硬姿勢を変えるどころか強めた。昨年2019年、香港人の為の香港人による司法制度が瓦解されることへの反発から、平和的デモは始まった。香港人の団結は長く続いた。しかし、共産党中央政府は、たがを緩めず、国際的には不評の「香港国家安全法」を通し、とうとう「一国二制度」は終焉した。
香港の人々は、民主派政党を解散し、表向き共産党制度を受け入れる選択をした。生き残るための知恵、苦渋の選択だっただろう。国際社会は、民主的香港を助けることは出来なかった。
今から約150年前、1873年に書かれたアルフォンス・ドーデの「最後の授業」が思い出される。フランスのアルザス地方がドイツに割譲されることになった時、授業の最後、先生は黒板に、フランス語で、Vive la France(フランス万歳)と大きく書いた。
この23年間の香港の「一国二制度」の歴史を、私達は忘れない。
香港よ、永遠に―――。
多謝
今日6月30日は、日本では、「夏越の大祓い」にあたる。今年前半の天下万民の罪や厄を御祓いして、今年2020年の後半を健康、清らかに過ごせるようにする。新型コロナウィルスの感染も止まないが、まずはお祓いして、明日から、新たな気持ちで生きよう。
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2020年7月1日水曜日
2020年6月23日火曜日
6月23日は何の日? ~「沖縄慰霊の日」、日米同盟条約発効、「オリンピック・デー」~
2020年6月23日、本日は、1945年の沖縄戦が組織的に終結した「沖縄慰霊の日」75周年であった。毎年、この日は沖縄では休日となり、県民皆が平和を考え、祈る日となっている。
丁度10年前、沖縄を訪問した直後、私は、次のようなことを記していた。
<沖縄は日米同盟の棘か光か>
「沖縄問題は日米関係の棘である。」と言われることがある。何故か。それは、在沖縄米軍基地にまつわる事件・事故が大きな反米・反基地運動につながり、それが良好な日米同盟関係を揺るがすきっかけになることがあるからである。1995年の少女暴行事件しかり、2009年の民主党政権誕生後の普天間基地移設問題しかりである。
<棘の背景:二つの歴史>
沖縄と米国との関係には、本土とは異なる二つの歴史がある。一つは、太平洋戦争末期、沖縄本島で繰り広げられた米軍との沖縄戦である。数か月(1945年4月1日~6月23日)にわたる激戦は、沖縄県民に多くの犠牲をしいた(役20万人の戦没者のうち半数以上が沖縄県出身者)。想像を絶する戦いである。今でも、島のあちらこちらに、その跡があり、自然と手を合わせたくなる。
もう一つ、本土と異なる歴史は、1952年に日本が米国(GHQ)の占領から独立した後も、沖縄は、米国の統治下に置かれたことである。それから沖縄が日本に復帰するには、1972年まで20年かかった。終戦後の1945年から1972年までの27年間に、沖縄の米軍基地が固定化してきたことは否めない。
<沖縄県民と米軍との良好な関係>
「沖縄は日米関係の棘」と言うと、まるで、沖縄が日米関係のマイナス要因になっているような印象を与える。しかし、沖縄は、逆に、「日米関係の光」として、プラス要因として考えることも出来るのではないか。筆者は、今回の沖縄訪問を終えて、そんなことを思った。
2010年3月29日、筆者は、那覇で、春の選抜高校野球で、沖縄の甲南高校がベスト8に進出する瞬間をテレビで視た。そして、「もしかしたら優勝するかも」と思っていたら、それが現実となった。現在、米国の大リーグでは、イチロー、松井、松坂等、日本の野球選手が活躍しているが、実は、沖縄の高校が野球に強いのは、米具の存在と無関係ではない。嘉手納基地近くの嘉手納高校も有名である。そして、キャンプ・シュワブの初代中隊長のテイラー大尉が少年野球チームを結成したこともあった。甲南高校に関しては、米軍がヘリコプターを提供して、練習試合のある石垣島(那覇から約400㎞)まで送迎したこともあるそうだ。
野球のみならず、沖縄駐留の米軍が沖縄県民等のために尽くした例は少なくない。今回、沖縄を訪問して、幾つかの美談を聞いたので紹介する。一つは、臓器移植の話である。2000年11月、キャンプ・キンザー(海兵隊基地)のパケット司令官が、脳梗塞で倒れ、脳死と判定された。パケット大佐は、かねてから、「万一の時は、沖縄を愛した証として、臓器沖縄県民および日本人に提供したい」と話していたことから、遺族は、大佐の臓器提供を申し出た。その結果、大佐の腎臓と角膜は、福岡、熊本及び沖縄の患者さんに提供された(恵龍之介「尖閣、沖縄が危ない!」『諸君』2006年5月号参照)。)この大佐の遺志を継ぐ米軍関係者は多く、彼らの中には、自分の子供が亡くなった時に、日本で、その臓器を提供したものもいたと聞いた。心に響く話である。
もう一つ、米軍兵士が沖縄県民の命を助けた話も聞いた。ショッピング・センターの前で、心臓麻痺で倒れた沖縄県民を、通りがかりの海兵隊の将校が蘇生をして命を救ったという話である。このような例は一件ではない。交通事故で瀕死の重傷を負った若者を、救命隊員が来るまでの間、米軍兵士が蘇生をして、一生を取りとめたこともある。この若者の父は、反基地運動家であったが、この出来事以来、反基地運動を止めたそうである。この他にも在日米海兵隊は、海岸の清掃等のボランティア活動、地域との交流事業(年1500回以上)を行ない、地元の「良き隣人」になろうとしている。また、アメリカ婦人福祉協会は、ギフトショップの売り上げを、10年間で200万ドル(約2億円)、沖縄の慈善事業に寄付している。
このように、沖縄県民と米軍との関係は、決して負の側面(棘)ばかりではなく、プラスの側面(光)もある。
(以上2010年4月記)
また、沖縄訪問で、何人かの方々にインタビューをさせて頂いたメモの中に、次のような記述を見つけた。
「沖縄戦の慰霊の日には、米軍基地内でも慰霊祭が挙行される。その際には、米軍の犠牲者のみならず、沖縄そして日本人の犠牲者も追悼する。牧師の祈りの他に、必ず、日本国歌「君が代」が吹奏される。1968年、ある沖縄県民が父に連れられ参列した時も、米陸軍音楽隊が最初に「君が代」を演奏したのを記憶する。それは、沖縄県民及び日本軍が立派に戦ったことへの崇敬の念である。」
この日本人の戦いぶりへの「崇敬の念」は、筆者が、2014年12月、パラオ共和国の激戦地ペリュリュー島を訪問した時にも感じた。圧倒的に優位だった敵の米軍に対して、一生懸命、家族や国を守るために戦った日本人の生き様は、相手への伝わったのだろう。
本日、沖縄慰霊の日には、糸満市摩文仁の平和祈念公園で式典が挙行される。戦没者の氏名が刻まれた「平和の礎」の前方に広がる海は青く美しいが、何故かとても切なくも感じられる。祈りの手を合わさずにはいられない。
今日6月23日は、偶然にも、1960年1月に岸信介総理がアイゼンハワー大統領と合意した「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障に関する条約」が発効した日でもある。本年は60周年にあたる。一般に「日米安保約」と呼ばれるが、正式な条約名にもあるように、条文の記載でも、この条約は、安全保障のみならず、日米両国民の福祉の向上や経済協力も謳っている。
「昨日の敵は今日の友」。75年間、日米間の絆が育まれてきたからこそ、そして60年間、日米同盟が安定に発展してきたからこそ、日本はある程度平和と繁栄を享受できたのだと思う。英霊に、先人に、そして皆々様に感謝する。
6月23日は、「平和の祭典」と呼ばれる古代のオリンピックを、近代復活させることが1894年にパリのソルボンヌで決まった日でもある。これについては、拙著『オリンピックと日本人の心』(内外出版)又は "The Olympics and the Japanese Spirit"(22世紀アート、英語版)をお読み頂きたい。
丁度10年前、沖縄を訪問した直後、私は、次のようなことを記していた。
<沖縄は日米同盟の棘か光か>
「沖縄問題は日米関係の棘である。」と言われることがある。何故か。それは、在沖縄米軍基地にまつわる事件・事故が大きな反米・反基地運動につながり、それが良好な日米同盟関係を揺るがすきっかけになることがあるからである。1995年の少女暴行事件しかり、2009年の民主党政権誕生後の普天間基地移設問題しかりである。
<棘の背景:二つの歴史>
沖縄と米国との関係には、本土とは異なる二つの歴史がある。一つは、太平洋戦争末期、沖縄本島で繰り広げられた米軍との沖縄戦である。数か月(1945年4月1日~6月23日)にわたる激戦は、沖縄県民に多くの犠牲をしいた(役20万人の戦没者のうち半数以上が沖縄県出身者)。想像を絶する戦いである。今でも、島のあちらこちらに、その跡があり、自然と手を合わせたくなる。
もう一つ、本土と異なる歴史は、1952年に日本が米国(GHQ)の占領から独立した後も、沖縄は、米国の統治下に置かれたことである。それから沖縄が日本に復帰するには、1972年まで20年かかった。終戦後の1945年から1972年までの27年間に、沖縄の米軍基地が固定化してきたことは否めない。
<沖縄県民と米軍との良好な関係>
「沖縄は日米関係の棘」と言うと、まるで、沖縄が日米関係のマイナス要因になっているような印象を与える。しかし、沖縄は、逆に、「日米関係の光」として、プラス要因として考えることも出来るのではないか。筆者は、今回の沖縄訪問を終えて、そんなことを思った。
2010年3月29日、筆者は、那覇で、春の選抜高校野球で、沖縄の甲南高校がベスト8に進出する瞬間をテレビで視た。そして、「もしかしたら優勝するかも」と思っていたら、それが現実となった。現在、米国の大リーグでは、イチロー、松井、松坂等、日本の野球選手が活躍しているが、実は、沖縄の高校が野球に強いのは、米具の存在と無関係ではない。嘉手納基地近くの嘉手納高校も有名である。そして、キャンプ・シュワブの初代中隊長のテイラー大尉が少年野球チームを結成したこともあった。甲南高校に関しては、米軍がヘリコプターを提供して、練習試合のある石垣島(那覇から約400㎞)まで送迎したこともあるそうだ。
野球のみならず、沖縄駐留の米軍が沖縄県民等のために尽くした例は少なくない。今回、沖縄を訪問して、幾つかの美談を聞いたので紹介する。一つは、臓器移植の話である。2000年11月、キャンプ・キンザー(海兵隊基地)のパケット司令官が、脳梗塞で倒れ、脳死と判定された。パケット大佐は、かねてから、「万一の時は、沖縄を愛した証として、臓器沖縄県民および日本人に提供したい」と話していたことから、遺族は、大佐の臓器提供を申し出た。その結果、大佐の腎臓と角膜は、福岡、熊本及び沖縄の患者さんに提供された(恵龍之介「尖閣、沖縄が危ない!」『諸君』2006年5月号参照)。)この大佐の遺志を継ぐ米軍関係者は多く、彼らの中には、自分の子供が亡くなった時に、日本で、その臓器を提供したものもいたと聞いた。心に響く話である。
もう一つ、米軍兵士が沖縄県民の命を助けた話も聞いた。ショッピング・センターの前で、心臓麻痺で倒れた沖縄県民を、通りがかりの海兵隊の将校が蘇生をして命を救ったという話である。このような例は一件ではない。交通事故で瀕死の重傷を負った若者を、救命隊員が来るまでの間、米軍兵士が蘇生をして、一生を取りとめたこともある。この若者の父は、反基地運動家であったが、この出来事以来、反基地運動を止めたそうである。この他にも在日米海兵隊は、海岸の清掃等のボランティア活動、地域との交流事業(年1500回以上)を行ない、地元の「良き隣人」になろうとしている。また、アメリカ婦人福祉協会は、ギフトショップの売り上げを、10年間で200万ドル(約2億円)、沖縄の慈善事業に寄付している。
このように、沖縄県民と米軍との関係は、決して負の側面(棘)ばかりではなく、プラスの側面(光)もある。
(以上2010年4月記)
また、沖縄訪問で、何人かの方々にインタビューをさせて頂いたメモの中に、次のような記述を見つけた。
「沖縄戦の慰霊の日には、米軍基地内でも慰霊祭が挙行される。その際には、米軍の犠牲者のみならず、沖縄そして日本人の犠牲者も追悼する。牧師の祈りの他に、必ず、日本国歌「君が代」が吹奏される。1968年、ある沖縄県民が父に連れられ参列した時も、米陸軍音楽隊が最初に「君が代」を演奏したのを記憶する。それは、沖縄県民及び日本軍が立派に戦ったことへの崇敬の念である。」
この日本人の戦いぶりへの「崇敬の念」は、筆者が、2014年12月、パラオ共和国の激戦地ペリュリュー島を訪問した時にも感じた。圧倒的に優位だった敵の米軍に対して、一生懸命、家族や国を守るために戦った日本人の生き様は、相手への伝わったのだろう。
本日、沖縄慰霊の日には、糸満市摩文仁の平和祈念公園で式典が挙行される。戦没者の氏名が刻まれた「平和の礎」の前方に広がる海は青く美しいが、何故かとても切なくも感じられる。祈りの手を合わさずにはいられない。
今日6月23日は、偶然にも、1960年1月に岸信介総理がアイゼンハワー大統領と合意した「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障に関する条約」が発効した日でもある。本年は60周年にあたる。一般に「日米安保約」と呼ばれるが、正式な条約名にもあるように、条文の記載でも、この条約は、安全保障のみならず、日米両国民の福祉の向上や経済協力も謳っている。
「昨日の敵は今日の友」。75年間、日米間の絆が育まれてきたからこそ、そして60年間、日米同盟が安定に発展してきたからこそ、日本はある程度平和と繁栄を享受できたのだと思う。英霊に、先人に、そして皆々様に感謝する。
6月23日は、「平和の祭典」と呼ばれる古代のオリンピックを、近代復活させることが1894年にパリのソルボンヌで決まった日でもある。これについては、拙著『オリンピックと日本人の心』(内外出版)又は "The Olympics and the Japanese Spirit"(22世紀アート、英語版)をお読み頂きたい。
2020年6月13日土曜日
日本文化から見る新型コロナ対策
新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、日本では4月8日に緊急事態宣言が発出され、5月26日に解除された。日本の外出制限は、他国のような強制的禁止ではなく、自粛、協力要請という緩いもので、当初は、その効果が疑われたが、幸い、医療崩壊を起こすことなく、全国民の一致団結した努力により、感染爆発を防ぐことができた。
もちろん、新型コロナウィルス感染者は収束したわけではないので、まだ油断はできない.
が、気を引き締めてばかりいて息切れしてしまってもいけないので、次の第二波の到来に備えて、気を引き締めなおすためにも、一瞬息抜きの時間が必要だろう。
そこで、日本文化の諸要素が、新型コロナウィルス感染防止に役立ったのではないかということを、少し元気づけのためにも語ってみたい。
第一は、日本人のきれい好きが功を制した。家に入る時は、靴を脱ぐ等、外部の汚いものをなるべく内に入れないようにする。小さい時から、帰宅したら、すぐ手を洗いましょうと教えられている。レストランなどに入ると、すぐお手拭きと水かお茶が出て来る。小学校から高校まで、お掃除当番があり、毎日、自分達のお教室は、自分達で掃き掃除、拭き掃除等をする。あるミッション系の学校では、お手洗いまでお掃除させるそうである。お寺さんや神社でも、毎朝の修行?はお掃除から始まる。庭を掃いたり、廊下をぞうきんがけする。与謝野晶子が、總持寺を訪れた時、その床のピカピカのを見て、お堂に足を踏み入れるのを躊躇したと言われ、その時、「胸なりて われ踏みがたし 氷より すめる大雄 宝殿の床」と詠んだ。
この事は、拙著『オリンピックと日本人の心』でも紹介した(132頁)。その中では、羽生結弦選手が競技前に、部屋をきれいに整えてから出かけること(133頁)、能楽師は能舞台を稽古前に磨くこと等も紹介した。
日本人のきれい好きは、その衛生観念にも表れている。小学校や中学校では、時々、「衛生検査」があり、きちんとハンカチとちり紙を持ってきているか、爪が伸びていないかをチェックさせられた。お風呂には毎日入る習慣がある。水が豊富な国だからとも言えるが、湯船への入り方としては、たとえかけ流しの温泉であっても、必ずまず全身をきれいに洗ってから入る。最近では、海外からの方が温泉旅館等に宿泊することも多くなったが、身体を洗わずに湯船に入ってしまう人もいるらしく、英語や中国語、韓国語等で、大浴場の入り方の説明がしてある。
この日本人の衛生観念については、かつて明治の頃、新渡戸稲造が台湾に赴任した時、農業政策や産業復興政策とともに、衛生観念をも教育したと、新渡戸基金の藤井茂理事長が、2020年3月15日号の『太平洋の橋』で書かれている。
その台湾は、今回、新型コロナウィルスの感染防止対策を、日本よりも上手くやり、世界のお手本になった。日本国内では、今回、最後まで唯一感染者が出なかったのが岩手県だった。その岩手県は、偶然にも、新渡戸稲造の故郷である。
日本文化が功を奏した第二の要素は、「間」の取り方である。今や世界で、感染防止に、Keep the social distance(人と人との間をあけて)と言われるが、こういう意識は、昔から日本にあった。日本人は、挨拶する時、抱き合ったり握手したりぜず、お辞儀で済ます。遠くから目が合うと、会釈だけして過ぎ去ることもある。「付かず離れず」の人間関係を大事にする。
もう何年も前にあるが、今上陛下が皇太子時代にタイ王国をご訪問された際、長年タイに住んでいらした日本人の方が、現地の状況を説明されることになった。その時、宮内庁のお付の方から、何メートルも離れてご進講をするように言われ、理由を尋ねると、「唾が殿下にかかってはいけないから。」と言われたそうだ。その方は、ご自身は声が大きいからと納得されていらした。そういえば、日本には、「沈黙は金」という言葉があり、通常、おしゃべりする時でも、あまり大声は出さない。飛沫感染のウィルス予防には、このことはプラスに作用するだろう。咳エチケットも、特別なことではない。約40年前(1982年~1983年)のことであるが、フランスの中学校の社会科の教科書に、東京の写真が載っていて、マスクをしている人は、「公害がひどいから」と説明されていた。それを見せられた私は、すぐさま、「それは違う。マスクは、風邪を人に移さないようにしたり、移されたりしないように、している。」と訂正を求めた。
「距離を取る」ことを、「空間を取る」と言い直しても良いが、これは、日本文化の様々な所に生きづいている。日本画や書道や生け花等、一つの空間にたくさんのことを詰め込まない。白い部分を残して、それこそ「空間」を大切にする。ごちゃごちゃと賑やかに書いたり、配置したりしない。華やかさに欠ける、「侘びさび」の文化と形容できよう。「蜜集」、「近蜜」は好まれないのである。
そこから、第三の要素、「風通しの良い」文化にもつながる。日本語の「風通が良い」という言葉は、物理的に空気の通りが良いという意味の他に、人間関係が良い、透明性が確保されていると言う意味もある。前者では、例えば「風通しの良い家」と言えるし、後者では、「風通しの良い組織」ということが挙げられる。日本では、古くから、「家は夏をむねとして立てるべし」と言われてきた(拙著英語版" The Olympics and the Japanese Spirit"135頁)。
縁側があり、外に開かれた家屋を建て、家の中は畳敷きで家具はほとんどなく、部屋の仕切りも、厚い壁ではなく、障子で影や光が透けて見える。固い煉瓦や石で閉ざされた空間はなく、「密閉」されていなかった。木の文化は、水も風も通す。
「令和」の御代に生きている私達、日本人だが、令和の元号のもととなった出典の万葉集の歌は、「初春の令月にして、氣淑く(よく)風和ぎ」である。ここにも「風の文化」が登場する。そして、今上陛下が、令和2年4月10日、新型コロナウィルスについて述べられたお言葉は次のようなものだった。
「この度の感染症の拡大は、人類にとって大きな試練であり、我が国でも数多くの命が危険にさらされたり、多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後、私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、f現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。」
この「心を一つにして力を合わせながら」とのお言葉から、筆者は、新渡戸稲造の'Union is Power'という揮毫を想い出した。
日本人が、そして世界の人々、人類が、心を一つにしてこそ、力が発揮でき、猛威を奮う感染症に打ち克つことが出来るのではないか。そんなことを思った。
上記のこと、その他のこと、令和2年5月25日の日本文化チャンネル桜の番組「フロント・ジャパン桜」で語っています。是非、ご覧下さいませ(1時間3分~1時間25分位)。
2020年4月30日木曜日
昭和天皇を偲ぶ
4月29日は、「昭和の日」の祝日だった。
昭和天皇を御偲びて、令和2年(2020年)の4月を考えてみたい。
昭和天皇は、20世紀の始まり1901年(明治34年)にお生まれになった。すなわち、日本国民は、4月29日の祝日を、昭和天皇のお誕生日としてお祝いするのである。
昭和天皇は明治のお生まれであり、大正時代、さらに昭和64年(1989年)1月7日、満87歳でご崩御されるまで、88年間の人生の中で、第一次世界大戦(1914年~1918年)も、第二次世界大戦(1939年~1945年)も、その間に起きた1918年~1920年のスペイン・インフルエンザの流行も、1923年の関東大震災も、全てご経験されている。
1945年の終戦の時は、御年44歳。人生の丁度、真ん中、折り返し地点でいらした。
たったお一人で、大国アメリカ合衆国(連合国の代表)のマッカーサー元帥(連合国軍最高司令官)に直談判され、ご自身の首はどうなっても良いから、日本国民の命を守ってほしい、飢えさせないでほしいとおっしゃられた。お蔭で、私達日本国民は、今、このように生きていられる。
終戦の詔勅では、「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」と、敗戦後の日本が苦難の道を歩むことを示唆された。
そして、7年間の連合国軍(実質は米国)の占領を終え、日本が主権回復をして、再び独立国となったのが、1952年の4月28日。昭和天皇が51歳のお誕生日をお迎えになる前日だった。その年、昭和天皇は、戦後初めて靖國神社をご親拝されていらっしゃる。モーニング姿でシルクハットを他の参拝者に向かって高く掲げられた。
2011年の東日本大震災、そして今年は新型コロナウィルスで、毎日の生活も、命も、今後の世界もどうなるか分からない不安定な時代。
そんな中、「昭和の日」に、昭和天皇をお偲びしつつ、ご自身のお立場や命よりも、私達日本国民の命を一番に考えて、終戦後の日本社会を考えて下さった歴史に、思いを馳せた。
実は、この日、久しぶりに書道具を持ち出した。今年の初め、お父様が特攻隊の生き残りだという友人と話をしていて、思い浮かんだ和歌を詠んだ。
若人ら 尊き命を捧げしは 家族と国への 限りなき愛
特攻隊員たちは、人を殺すためではなく、家族や国家の未来を守るために旅立った。
そんな気持ちは、世界でも共通に存在する。
新型コロナウィルスとの戦いでも、医療現場では、患者さんを助けようとして、自らが感染し命を落とした方々もいる。そこには献身的行動と人類への愛がある。
「昭和の日」、手を合わせずにはいられない。合掌
薫風の光の中で、たくさんの感謝を込めて
令和2年(2020年)4月29日 鈴木くにこ
昭和天皇を御偲びて、令和2年(2020年)の4月を考えてみたい。
昭和天皇は、20世紀の始まり1901年(明治34年)にお生まれになった。すなわち、日本国民は、4月29日の祝日を、昭和天皇のお誕生日としてお祝いするのである。
昭和天皇は明治のお生まれであり、大正時代、さらに昭和64年(1989年)1月7日、満87歳でご崩御されるまで、88年間の人生の中で、第一次世界大戦(1914年~1918年)も、第二次世界大戦(1939年~1945年)も、その間に起きた1918年~1920年のスペイン・インフルエンザの流行も、1923年の関東大震災も、全てご経験されている。
1945年の終戦の時は、御年44歳。人生の丁度、真ん中、折り返し地点でいらした。
たったお一人で、大国アメリカ合衆国(連合国の代表)のマッカーサー元帥(連合国軍最高司令官)に直談判され、ご自身の首はどうなっても良いから、日本国民の命を守ってほしい、飢えさせないでほしいとおっしゃられた。お蔭で、私達日本国民は、今、このように生きていられる。
終戦の詔勅では、「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」と、敗戦後の日本が苦難の道を歩むことを示唆された。
そして、7年間の連合国軍(実質は米国)の占領を終え、日本が主権回復をして、再び独立国となったのが、1952年の4月28日。昭和天皇が51歳のお誕生日をお迎えになる前日だった。その年、昭和天皇は、戦後初めて靖國神社をご親拝されていらっしゃる。モーニング姿でシルクハットを他の参拝者に向かって高く掲げられた。
2011年の東日本大震災、そして今年は新型コロナウィルスで、毎日の生活も、命も、今後の世界もどうなるか分からない不安定な時代。
そんな中、「昭和の日」に、昭和天皇をお偲びしつつ、ご自身のお立場や命よりも、私達日本国民の命を一番に考えて、終戦後の日本社会を考えて下さった歴史に、思いを馳せた。
実は、この日、久しぶりに書道具を持ち出した。今年の初め、お父様が特攻隊の生き残りだという友人と話をしていて、思い浮かんだ和歌を詠んだ。
若人ら 尊き命を捧げしは 家族と国への 限りなき愛
特攻隊員たちは、人を殺すためではなく、家族や国家の未来を守るために旅立った。
そんな気持ちは、世界でも共通に存在する。
新型コロナウィルスとの戦いでも、医療現場では、患者さんを助けようとして、自らが感染し命を落とした方々もいる。そこには献身的行動と人類への愛がある。
「昭和の日」、手を合わせずにはいられない。合掌
薫風の光の中で、たくさんの感謝を込めて
令和2年(2020年)4月29日 鈴木くにこ
2020年4月25日土曜日
出雲大社から世界への祈り
ひと月前の2020年3月24日、お彼岸が明けた翌日、出雲大社をお参りした。
松江城から宍道湖のほとりを通って、出雲大社に到着すると、真っ先に巨大な日の丸が目に入った。
元自衛官の方でさえ、こんな大きな日の丸は、自衛隊でも持っていないのではないか、というほどの見事なもの。この日は、ご覧の通りの快晴で、雲一つない。地元の人達も、「八雲立つ出雲」というように、この辺りは常に雲ががっていて、こういう日は珍しいという。
鳥居から拝殿へ。
大きな注連縄(しめなわ)の拝殿で参拝。
普通、神社のお参りの仕方は、「2礼2拍手1礼」だが、
出雲大社では、「2礼4拍手1礼」。
注連縄の大きさにも誘われ、大きく4拍すると、氣も心も大きくなる。
拝殿の先が本殿。神様により近い所で、改めて手を合わせる。
出雲大社の御祭神は、大国主大神。
大国主大神と天照大御神との関係は、出雲大社の以下のサイトで読むことが出来る。
一部を引用しておく(下線は筆者)。
http://www.izumooyashiro.or.jp/about/ookami
「大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。」
「大神様は国づくりの最中、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さいました。この慈愛ある御心への感謝の顕れが、一つ一つの御神名の由来となっているのです。
今では広く“えんむすび”の神として人々に慕われていらっしゃいますが、この“縁”は男女の縁だけではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための貴い結びつきです。そして、日本の悠久なる歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守られ、目に見えないご縁を結んで下さっているのが大国主大神様なのです。」
伊勢神宮(三重県伊勢市、御祭神は天照大御神)と出雲大社は、陽と陰の関係とも言われる。太平洋と日本海という点でもそうである。そして、北海道から沖縄県の西端の与那国島までのほぼ真ん中に位置する。
上記の引用で驚くべき記述に気付く。私達の古代からの国造りでは、既に、農業のみならず、医療まで考えられていたこと。「古事記」の「因幡の白兎」のお話でも、怪我して苦しんでいた兎(うさぎ)さんに、治療方法を親切に教えてあげて助けてあげたのが大国主大神様であった。
(http://www.izumooyashiro.or.jp/about/inaba を参照。)
新型コロナウィルスで、日本も世界も苦しんでいる中での参拝。
大国主大神様は、だまされて苦しんでいるものを医療の知恵で助けることを行動でお示しになっていたこと、「生きとし生けるもの」の共存共栄を唱え、見えない「ご縁」という力で見えない世界を司って下さっている。
とても有難いご存在。日本の国造りの神様は、この悩み、不安な私達の気持ち、心を癒して下さる、と感じた。
見えない敵には、見えない力が一番効果的かも、そんなことにも気づかされた。
10月のことを神無月と私達は呼ぶが、旧暦の10月、全国の八百萬神様が出雲大社に集まる。出雲では、その月を「神在月」と呼ぶ。その神々のお宿となるのが、下記写真の建物「十九社」。どんな風に御在室されるのか、想像してみた。
注連縄の大きいことでよくマスメディアで取り上げられるのが、神楽殿。コンサート等で使用されることもある。左下は真下から撮影したもの。どうやって製作したのか、何人がかりで縄をしめたのだろうか。重さ約1トンと聞いたことがあるが、しっかりつるすのも大変だろう。国造りは、それだけ偉業ということだろうか。

夜、お夕飯を遅めにして、夕日を拝みに行った。午後6時半頃が日の入り。
神在月に八百萬神様がご到着するという、日本海に面した稲佐の浜に足を速めた。
出雲の地から、世界の安泰を祈った。特に、新型コロナウィルスの収束を祈願した。
ただただ祈る。静寂。波の音。風の流れ。
往復、「神迎の道」を通った。神在月に、稲佐の浜に着いた八百萬神様が出雲大社まで向かわれる際にお通りになる道らしい。神を迎える道。日本海に向かって道の入り口に、灯篭のようなものが2柱、門のように立っていた。
夕食時、「神様と同じものを召し上がって頂きます。」と出されたのが、下記の御膳。海の幸、山の幸、豪華というより質素である。
昨年の大嘗祭の報道で見たものと似ている印象。
感謝して頂いた。出雲にいると、どこでも、「神様」「神様」と言われる。
「八雲立つ」出雲。雲に隠れていつも見守っていて下さるのかも。w
こんな偶然があって良いのだろうか。いつもあまり見ることのないテレビ。
この夜、スイッチを付けたら、NHKで、出雲出身の竹内まりやが昨年の紅白で歌った「いのちの歌」の特別番組がやっていた。
今、この時、この場所で、涙が出た。忘れられない。
♬本当に大事なものは、隠れて見えない♪
♪この命に、ありがとう♬
もう一つ、不思議な偶然が起きた。このブログの3月20日付で、私は、「東京オリンピックは、中止でなく、延期されるべきだ。」と書いた。日本側とIOcで延期が正式に決まったとのニュースがこの3月24日に流れ、出雲で知った。
私が多くの人の気持ちを記した『オリンピックと日本人の心』(内外出版)は、生命(いのち)で始まり、感謝でおわる本である。「いのちの歌」が主題歌となった出雲を舞台にした連続テレビドラマ「だんだん」は、出雲方言で「ありがとう」の意味と聞いた。何か見えないご縁を感じた。
松江城から宍道湖のほとりを通って、出雲大社に到着すると、真っ先に巨大な日の丸が目に入った。
元自衛官の方でさえ、こんな大きな日の丸は、自衛隊でも持っていないのではないか、というほどの見事なもの。この日は、ご覧の通りの快晴で、雲一つない。地元の人達も、「八雲立つ出雲」というように、この辺りは常に雲ががっていて、こういう日は珍しいという。
鳥居から拝殿へ。
大きな注連縄(しめなわ)の拝殿で参拝。
普通、神社のお参りの仕方は、「2礼2拍手1礼」だが、
出雲大社では、「2礼4拍手1礼」。
注連縄の大きさにも誘われ、大きく4拍すると、氣も心も大きくなる。
拝殿の先が本殿。神様により近い所で、改めて手を合わせる。
大国主大神と天照大御神との関係は、出雲大社の以下のサイトで読むことが出来る。
一部を引用しておく(下線は筆者)。
http://www.izumooyashiro.or.jp/about/ookami
「大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。」
「大神様は国づくりの最中、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さいました。この慈愛ある御心への感謝の顕れが、一つ一つの御神名の由来となっているのです。
今では広く“えんむすび”の神として人々に慕われていらっしゃいますが、この“縁”は男女の縁だけではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための貴い結びつきです。そして、日本の悠久なる歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守られ、目に見えないご縁を結んで下さっているのが大国主大神様なのです。」
伊勢神宮(三重県伊勢市、御祭神は天照大御神)と出雲大社は、陽と陰の関係とも言われる。太平洋と日本海という点でもそうである。そして、北海道から沖縄県の西端の与那国島までのほぼ真ん中に位置する。
上記の引用で驚くべき記述に気付く。私達の古代からの国造りでは、既に、農業のみならず、医療まで考えられていたこと。「古事記」の「因幡の白兎」のお話でも、怪我して苦しんでいた兎(うさぎ)さんに、治療方法を親切に教えてあげて助けてあげたのが大国主大神様であった。
(http://www.izumooyashiro.or.jp/about/inaba を参照。)
新型コロナウィルスで、日本も世界も苦しんでいる中での参拝。
大国主大神様は、だまされて苦しんでいるものを医療の知恵で助けることを行動でお示しになっていたこと、「生きとし生けるもの」の共存共栄を唱え、見えない「ご縁」という力で見えない世界を司って下さっている。
とても有難いご存在。日本の国造りの神様は、この悩み、不安な私達の気持ち、心を癒して下さる、と感じた。
見えない敵には、見えない力が一番効果的かも、そんなことにも気づかされた。
10月のことを神無月と私達は呼ぶが、旧暦の10月、全国の八百萬神様が出雲大社に集まる。出雲では、その月を「神在月」と呼ぶ。その神々のお宿となるのが、下記写真の建物「十九社」。どんな風に御在室されるのか、想像してみた。
本殿を裏から見た所、うさぎさんも手を合わせる |
夜、お夕飯を遅めにして、夕日を拝みに行った。午後6時半頃が日の入り。
神在月に八百萬神様がご到着するという、日本海に面した稲佐の浜に足を速めた。
出雲の地から、世界の安泰を祈った。特に、新型コロナウィルスの収束を祈願した。
ただただ祈る。静寂。波の音。風の流れ。
往復、「神迎の道」を通った。神在月に、稲佐の浜に着いた八百萬神様が出雲大社まで向かわれる際にお通りになる道らしい。神を迎える道。日本海に向かって道の入り口に、灯篭のようなものが2柱、門のように立っていた。
夕食時、「神様と同じものを召し上がって頂きます。」と出されたのが、下記の御膳。海の幸、山の幸、豪華というより質素である。
昨年の大嘗祭の報道で見たものと似ている印象。
感謝して頂いた。出雲にいると、どこでも、「神様」「神様」と言われる。
「八雲立つ」出雲。雲に隠れていつも見守っていて下さるのかも。w
こんな偶然があって良いのだろうか。いつもあまり見ることのないテレビ。
この夜、スイッチを付けたら、NHKで、出雲出身の竹内まりやが昨年の紅白で歌った「いのちの歌」の特別番組がやっていた。
今、この時、この場所で、涙が出た。忘れられない。
♬本当に大事なものは、隠れて見えない♪
♪この命に、ありがとう♬
もう一つ、不思議な偶然が起きた。このブログの3月20日付で、私は、「東京オリンピックは、中止でなく、延期されるべきだ。」と書いた。日本側とIOcで延期が正式に決まったとのニュースがこの3月24日に流れ、出雲で知った。
私が多くの人の気持ちを記した『オリンピックと日本人の心』(内外出版)は、生命(いのち)で始まり、感謝でおわる本である。「いのちの歌」が主題歌となった出雲を舞台にした連続テレビドラマ「だんだん」は、出雲方言で「ありがとう」の意味と聞いた。何か見えないご縁を感じた。
「オリンピックと日本人の心」は、本年、一部内容を変えて、‛The Olympics and the Japanese Spirits’(The 22 Century Art)として英語で出版された。
そこで新たに追加したのが、「音楽とオリンピック」についてだが、その中で、私は、ヴァイオリニスト吉田美里さんについて触れた。
今日、このブログを書きながら、出雲大社のサイトに、吉田美里さんを見つけた。
http://www.izumooyashiro.or.jp/hounous/7308
彼女は、昨年、(一般にコンサートは神楽殿で行われるが)より神様に近い拝殿で、日墺国交150周年を記念した奉納コンサートを行なった。
2020年4月15日水曜日
米FBIも指摘する、新型コロナウィルスで急増したズームの危険性
【Front Japan 桜】デマに惑わされないために -新型コロナお役立ち情報- / FBIも指摘する、
コロナで急増したズームの危険性[桜R2/4/13]
最近問題続発のzoom。zoomの社長もこれを認め、改善には90日以上かかるという。
危険を知ったうえで子供達に使用させたり、部下や大衆に使用させたりして何か起きた場合、どのように責任をとるのだろうか。暫くは別のアプリにした方が良いのでは?54分頃からです。
2020年4月11日土曜日
人類とウィルスの第二次世界戦争
現在の新型コロナウィルスとの戦いを、「人類とウィルスの第二次世界戦争」と名付けたい。では、「人類とウィルスの第一次世界戦争」はいつか。それは、丁度100年前に起こったスペイン・インフルエンザの猛威である。
速水融先生(慶應義塾大学名誉教授)が2006年に著した『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店)の副題が、「人類とウィルスの第一次世界戦争」だった。速水先生は、昨年12月に90歳でご逝去されたが、まるで今年の新型コロナウィルスを予言して「第一次」の後、「第二次世界戦争」が来ることを示唆していた。
100年前のスペイン・インフルエンザがなぜ「戦争」だったかは、その死者数が、それを表している。1914年~1918年の第一次世界大戦では、1000万人の犠牲者を出したが、スペイン・インフルエンザの死者数は、その約4倍、4000万人と言われる。また、日本だけ見ても、例えば、大正の関東大震災では、約10万人が亡くなったが、スペイン・インフルエンザでは、約45万人が亡くなった。当時の日本の人口は5500万人程だったかと思うと、その半数が感染し、感染者の2%が亡くなったことになる。
私達は、歴史の授業で、第一次世界大戦や関東大震災のことは習ったり聞いたりするが、その4倍以上の犠牲者を出したスペイン・インフルエンザの事を知る人は多くない。
速水先生も、関東大震災の写真はたくさんあるのに、スペイン・インフルエンザについては奇妙な程ない、とおっしゃる。「見えない敵」との戦争は、見えるようには残らないのだろうか。
しかし、「賢者は歴史に学ぶ」というように、その歴史をしっかりと残して下さったのが、速水先生である。現在進行形の「人類とウィルスの第二次世界戦争」において、私達は、その教訓から学ばなければならない。
速水先生は、幾つかのことを教えて下さった。
①ウィルスというものは、遺伝子がRNAで、不安定であり、変異しやすい。だから、侮れない。知ったつもりの敵が、別物になって表れるかもしれないのだ。
実際、スペイン・インフルエンザの場合、日本には、3回に分けてやってきた。第1波目が、1918年5月~7月くらいで、発熱した感染者はいたが、死者は出ずに済んだ。しかし、第2波、1918年10月~1919年5月は、11月に感染者が急増し、休校や交通・通信障害があり、翌1月には、死者が多くなり、葬儀場が混雑した。感染者の数の割には致死率は高くなかったが、死者数は26万6千人に上った。第3波の1919年11月~翌1920年5月では、死者数は18万7千人で、合計は第2波より少ないが、ウィルスは猛毒化し、致死率は5%にも達したと言う。世界中で4000万人もの人が亡くなり一定の免疫力がついて、やっとスペイン・インフルエンザは収まった。3年かかった戦争である。
②薬やワクチンは万能ではない。
現在も新型コロナウィルスに対して、アビガン等の新薬の投与やワクチンの開発がなされているが、専門家も指摘しているように、それには時間がかかる。その間にも、感染は拡大してしまう。副作用等の危険もある。
③「手洗い、うがい、人混みに行かない」はいつの時代も有効である。
④新幹線や飛行機は即座にヒトとウィルスを運ぶ。
科学技術の発達は、新薬やワクチンの開発等感染症の対策にプラスの作用をもたらすが、一方、交通網の発達は、。感染を拡大するように働いてしまう。100年前のスペイン・インフルエンザの時は、今のような人の移動はなかったが、ウィルスは世界に伝播した。現在は、グローバル化が進み、100年前の比ではない。恐ろしい拡散力である。
⑤ 「空気感染」は「接触感染」より怖い。
ウィルスは飛沫感染と言われると同時に、空気中や固いモノの表面に数分間残ると言われる。だから、たとえエレベーターにヒトがいなくても、直前に乗ったヒトから感染することもあるらしい。
⑥「人間同士が争っている暇はない。」
速水先生は、2006年の段階で、警告を発していて下さった。人類共通の敵への備えが出来ていなかったのが、現在の状況である。
通常の戦争よりウィルスとの戦争の方が恐ろしいと警笛を鳴らしたのは、ビル・ゲイツや中山太郎先生とも共通する(拙者ブログ'What human beings can learn from COVID-19'参照)。
いずれにしても、感染症の基本対策は、隔離政策と移動制限。この新型コロナウィルス
は、世界同時に、鎖国と自宅待機等の移動制限をしないと、なかなか収束しないかもしれない。そんな危惧を抱いている。
新渡戸稲造は、Unioin is Powerと揮毫したが、まさに世界がまとまって新型コロナウィルスに対処することが必要だろう。
参考:https://www.amazon.co.jp/日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争-速水-融/dp/4894345021
*是非、このレビューもお読み下さい。当時も、日本の軍医さんが、自分の体調も顧みず、最期まで患者さんの治療にあたりました。今も、そんな状況があるのではないでしょうか。医療現場の皆様に感謝しつつ、負担の軽減も考えましょう。それには、感染防止と健康管理が重要です。
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