本日、2022年1月14日、海部俊樹元総理の訃報に接した。海部元総理は1月2日に91歳のお誕生日をお迎えになったばかりで、9日にご逝去されたことが、本日公表された。
本日、たまたま靖國神社参拝の帰り道、かつて平成元年前後に海部総理ご夫妻が住んでいらしたマンションの前を通りかかった。
確か、そのマンションの最上階のお住まいで、一度、お宅を訪れたことがある。
当時、私は、外務省の国際報道課に勤めており、海部総理が訪米される前に、現地の大手新聞ワシントン・ポスト紙(Fred Hyattt東京支局長)がファースト・レディである海部総理夫人をインタビューしたいということで、そこに同席したのである。
とても良い雰囲気の中でインタビューが行われ、お抹茶が出されたが、私は緊張のあまり一服も出来ずにただ帰ってきたのを覚えている。
さて、平成元年と言えば、日本では総理が2回変わり、海部総理は3人目だった。
1月7日の当ブログで書かせて頂いた「昭和天皇の大喪の礼」の時、弔問外交の中心にいらしたのは竹下登総理である。そして、同年(1989年)夏のG7(先進国首脳会議)アルシュ・サミットでは、宇野宗佑総理がパリに赴き出席された。竹下総理はリクルート・スキャンダルで、宇野総理は女性スキャンダルで退陣に追い込まれ、選挙では消費税等が争点にマドンナ旋風が吹き土井たかこ率いる社会党が躍進した時だった。
そんな時、お金でも女性でも大丈夫な総理、閣僚が就任することになり、クリーンな海部総理、中山太郎外務大臣が登場する。すなわち、「大物」「有名」政治家が影をひそめていなければならない時代だった。
当時、日本はバブル真っ最中で、米国進出もすさまじかった。米国では健康志向で日本食ブーム、アボカドを巻いたカリフォルニア巻き寿司や豆乳を使ったアイスクリーム「トフティー」が売り出された。
海部総理が就任した直後、外国人記者からは、「Kaifu, Tofu, Who is who?」などと、竹下総理に比べて「無名」の海部総理に対して、質問が多数出た。ある米国の新聞では、竹下総理のマリオネットというような記事が出た。
昭和から平成、総理3人、天安門事件から、ホメイニ師の死去、ベルリンの壁の崩壊まで、激動の1989年を経て、1990年(平成2年)夏はイラクのクウェート侵攻、1991年(平成4年)初頭はイラク戦争が勃発。日本は世界第2位の経済大国として財政支援をするも、人的貢献をせず、クウェートの感謝広告に「Japan」の文字は見つからず、これを契機に「平和協力法」が制定され、自衛隊が本格的に海外に出るようになった。
ちなみに、今年は、初めて自衛隊がPKOの一員としてカンボジアに派遣されて30年となる。
私がパリに赴任中、宮澤喜一総理が訪仏された。その際、野党の牛歩戦術等で大変だった「平和協力法」(自衛隊を海外派遣させるための法律)の成立に尽力された政治家及び自民党職員の方が同行された。ほんの少し、滞在中のお世話をさせて頂いた。
私は、外務省を退職後、貿易会社を経て、ご縁あって中山太郎衆議院議員(元外務大臣)の秘書となった。当時、自民党は、第一党でありながらも連立に失敗し、八党派の細川政権が成立した。細川内閣は総理のNTTスキャンダルで崩壊し、その後、羽田内閣が成立するが、社会党を連立から追い出したことで短命に終わった。
その後、反自民で細川内閣や羽田内閣成立の立役者であった小沢一郎衆議院議員は、新たな総理候補を、自民党議員から選んで、自民党を崩して新たな政権を立てようとしていた。
実は、その白羽の矢を最初に立てられたのが、中山太郎先生だった。衆議院議員中山太郎事務所は、当時、秀和TBR永田町ビル(現在のAPA国会議事堂前ホテルがある辺り)の中にもあり、そこには、佐藤守良衆議院議員(広島県出身)が、小沢一郎先生の「密使」として、足しげく通っていらした。中山太郎先生に、総理候補となることを説得するためであった。
ビルの一階にあったお蕎麦屋さんからお蕎麦(山かけ)を注文して、お二人でじっくりお部屋で会談、懇談されていた。とても仲の良い雰囲気だった。同ビルには、竹下元総理や宮沢元総理の事務所もあり、そして海部元総理の事務所は、中山太郎事務所の真下に位置した。海部元総理と中山元外相はご夫妻で現役時代に外遊する等したことから、ご夫妻で親しくされていた。
中山先生に小沢一郎先生が白羽の矢を立てていたことは、雑誌フォーカス(またはフライデー?)に書かれたこともあった。が、結局、中山太郎先生は、自民党離党が条件だったので、よく考えた末、自分を育ててくれた自民党を裏切るわけには行かないと、「信頼の問題だ」として、佐藤守良先生(小沢先生)のお申し出を丁重にお断りした。
そして、佐藤先生が、その後、すぐ下の海部事務所に訪問されることになった。
総理指名の投票が国会で行わるその日、速報で海部元総理が自民党を離党して出馬することが報じられ、永田町周辺は、票読みのできない「熱っぽい」空気に包まれた。自民党としては、与党に復帰するには社会党の協力がいる、村山富市党首を総理候補にするしかない、ということになった。
中山太郎先生始め、自民党の多くの議員の先生方にとって、それは苦渋の選択だった。イデオロギーは異なる、昨日まで敵対していた野党の党首、そんな人の名前を投票用紙に書けるか、という思いだった。ただ、「信用」、「信頼」の問題だった。もうお互い、自民党も社会党も裏切られることはまっぴらだった。そして成立したのが、自社さ連立政権である。
中山太郎元外務大臣は現在96歳でご健在である。
先生とご一緒に歩ませて頂いたほんの歴史の一部、真実を書き残しておきたいと思う。