2021年7月10日土曜日

聖火、日本をつなぐ(埼玉)7月6日~8日

 3月25日に福島からスタートした聖火は、栃木、群馬、長野、岐阜、愛知、三重、和歌山、奈良、大阪から四国の徳島、香川、高知、愛媛とまわり、九州の大分、宮崎、鹿児島から沖縄まで南下をした後、再び九州に戻り、熊本、長崎、佐賀、福岡を通って、本州の山口、島根、広島、岡山、鳥取、兵庫、京都、滋賀を経て、北陸の福井、石川、富山から、新潟、山形、秋田、青森を通過し、北海道まで北上した後、東日本大震災の被災地、岩手、宮城を周り、そして静岡から山梨、神奈川、千葉、茨城、埼玉へと引き継がれた。

 最終目的地の東京に至る、最後の地が埼玉県だった。

 3日間にわたる聖火リレーは、公道でのリレーと、公園での点火セレモニーとを組み合わせる形で行われた。その模様は、以下のサイトでご覧頂ける。

スピードスケートに打ち込む中学生ランナー「次は選手として金メダルを獲りたい」 埼玉県1日目 東京2020オリンピック聖火リレーデイリーレポート (olympics.com)

デフフットサルとデフサッカーの普及願う日本代表「世界一獲ることが目標」 埼玉県2日目 東京2020オリンピック聖火リレーデイリーレポート (olympics.com)

走り続ける50歳市民ランナー「続けることで自分を育てられる」 埼玉県3日目 東京2020オリンピック聖火リレーデイリーレポート (olympics.com)

 埼玉県と言えば、次の新1萬円札に起用された渋沢栄一の生誕地、深谷市がある。

実は、筆者の父の実家のすぐ隣が、その生誕地であった。

(本当かどうかは知らないが)父曰く、「渋沢栄一生誕地」の碑は、渋沢家の敷地に建てる所がなく、父の実家の敷地内に建てられたそうだ。

 筆者の母は、自称「江戸っ子」で、大手メディで言い出した「ださいたま」という言葉で、父をからかうこともあったが、父は、渋沢栄一や実家の両親がしたこと、自分の青年時代などに誇りを持っていて、時々、話をしてくれた。その中でも、印象的だったのが、先の大戦(第二次世界大戦)中のこと。

 父の実家では、軍人さん達に食事をやり、一緒に住まわせることもあった。その中の一人が特攻の藤井中尉だった。ある時、藤井中尉の特攻志願を知った妻は、子供とともに川に身投げして命を絶った。その話をしながら、父は、しきりに「かわいそうだったなあ。」「本当に可哀そうだった。」と何度も言いながら話してくれた。

 もう一つは、終戦の1日前、8月14日のこと。当時15歳の中学生だった父は、毎日、溶接作業のため工場に通っていた。熊谷市には、中島飛行機の工場があった。父は、田んぼのあぜ道を歩きながら「勤務」していた。中学生の先輩も同級生も皆、同様だった。

 その日、8月14日には、既に、明日何か重大発表があるらしいという噂は立っていた。皆、何だろうとそわそわしながらも、通常の生活をして、父は工場に出かけた。その時、米軍による熊谷空襲が起きた。空襲がおさまってから、父が工場への道を進むと、傍らに、先輩が倒れて亡くなっていた。そんな姿を見ながら、父は、工場へ行き、溶接作業を行っていた。

 父は、世界大恐慌が起きた1929年(昭和4年)生まれで、今年で92歳になる。昨年から急に脳の認知機能が低下して、いわゆる典型的「認知症」の症状が出ている。そんな父でも、短期記憶は苦手でも、若き18歳頃に覚えたフランス語の文章や詩は、すらすら暗唱できる。

(当ブログ「介護の現場から」を参照)

  埼玉とオリンピックの関係で特記しておきたいのは、1964年の東京オリンピックの聖火台を製造した川口の鈴木家のお話。命を懸けて出来た聖火台の話は、鈴木くにこ著『オリンピックと日本人の心』(内外出版)の中でも書かせて頂いた。書きながら、涙が出た。本当に苦労に苦労を重ねて、人々の協力と信念と丹念の賜物が、あの1964年の聖火台だった。それを今も大切にしている、現スポーツ長官の室伏選手や石巻の皆さんの事も書かせて頂いた。是非、お読み頂きたい。

オリンピックと日本人の心 - 内外出版株式会社 (naigai-group.co.jp)


 埼玉を聖火が通過した時は、ちょうど七夕だった。

 「七夕に夢と感謝を」、そんな気持ちで聖火は天高く翳されていた。

 さあ、いよいよ聖火は東京へ。





 


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