かつてママ友たちが、「子育てが終わって第2の人生と思うと介護なのよねえ。」と言っていたが、まさか、自分がそういう立場に立たされるとは思ってもみなかった。
それは、昨年の9月、母(89歳)の入院がきっかけだった。それまで父(91歳)と母は二人暮らしだったが、、突然の母の入院で父は自宅に一人残されることになった。心配で、電話をしたり見に行ったりしたが、父は、「大丈夫だから。それより俺が死んでも泣くなよ。人生は一度しかないから、思いっきり好きなことをしなさい。」と遺言みないなことばかり繰り返し言う。まだ残暑の厳しい中、やや脱水症状から、老衰ぎみであった。
入院した母への面会は、コロナ禍で週1回1人のみ可能だった。予約をして会いに行き、主治医の先生等にも容態を伺った。母は、自分は病院にいるから大丈夫だから、父を見に行ってほしい、出来れば寝泊りしてほしいと私に頼んだ。
父に会い、母に言われたことを話すが、話した後には、すぐ忘れている。母が入院したことさえ分かっていないのか、何度も同じことを尋ねる。父は、「私は介護が不要だから、もう帰りなさい。泊まる必要はないよ。」と言うので、私も、それならと思って、帰ろうとすると、父がいきなり、「あれ、貴方誰だっけ?くにこか?そこに何人いるのか。」と聞いてくる。えっ、と驚くが、父の認知機能の低下を目の当たりにし、心配で帰れなくなった。
そこから、同居生活は始まった。母が入院中、毎朝6時すぎには、母から電話がかかってきて、父がどうしているか聞いてくる。「泊まってくれたの。有難う。」「夜、何かあったら心配だからよろしくね。」と言われた。自宅と両親宅を行き来する生活、掃除も炊事も洗濯、ゴミ出しも、次第に自宅より両親のためにする方が多くなる。母の入院が3週間以上になり、その間、父も母も、自分の生死と相手の死への不安を募らせるようになった。父が往診の先生に、「生活上の不便はないが、あえて不安といえば、自分が死ぬことと、家内が死ぬこと」と述べた時、私は、人間は、いざ死を前にすると誰しも不安になるらしい、という話をまざまざと見せつけられた思いがした。母もしきりに言う。「90と言うのは大きな境、体力も含め色々な面で衰えを感じずにはいられない。もう退院しても今までのようには同じように出来ないから、良かったら同居してちょうだい。ベッドを早く購入し、簡単なリフォームも頼みましょう。」
このように、母が退院してからも、私の同居生活は続き、両親合わせて180歳を、精神的に背負うことになる。まして、父、母、二人の性格、食べ物の好み等、全く違う。それに応じて行かなければならない。母は、「お寿司が食べたい。」と言い、ほぼ毎日のようにお昼は握りずしを買ってくるように頼む。父は、自分でインスタント・コーヒーに牛乳を入れて、それとお決まりのバターロールを少し焼いて食べるのが好き。父は、朝も昼も、時には夜も分からなくなることがあるので、毎食同じ物を食べたがる。それでは栄養が偏るので、スープを作ったり、細かく野菜を茹でたりしたものを出す。そうすると、「これ何だ?」と聞きながら、歯が悪いので、ペッぺぅと音を立てながら、栄養分だけ吸って、自分が噛めない所は吐き捨てるようにお皿に出す。それが、最初は汚らしく感じていやだったが、次第に慣れた。老いと向き合っているのは本人ばかりではない、周りでお世話している人達もそうなんだ、そんなことを初めて肌身で感じた。経験しなければ分からない。
父は目や耳が悪いが足はまだ動く。母は目や耳は悪くないが、足が悪い。朝、父が新聞を取りに行くと、母がそれを声に出して読んだり、テレビ欄に赤ペンで記しをつけたりする。そして、食事をして、テレビを見て、母が本を読み、父が昼寝をし、一日が過ぎて行く。母は、夏目漱石や芳賀徹、池波正太郎の本を出して来ては、何度も何度も同じ個所を読む。父は、若い時に覚えたフランスのマラルメやモーパッサンの文章を自慢して暗唱する。フランス国歌マルセイエーズも歌い出す。姉は、父を病院に連れて行くタクシーの中で大声で歌われて困ったそうだ。
父は、昔から整頓が上手な方ではなかったが、最近はさらにひどくなった。ベッドの周りには、開けかけの目薬が何十個も散乱していた。入れ歯洗浄剤ポリデントも、使いかけの物が何十個もあり、まだ足りないと買い足す。熱中症予防用に姉が差し入れたポカリスエット等も、そこら中に飲みかけのペットボトルが置いてある。飲み薬も、なかなか管理出来ない。声かけしても、「もう飲んだ。」とか、「まだ飲んでなかったか。」とか曖昧な答えをしていたが、毎日習慣化させて行くと、次第に食後に飲めるようになっていた。介護マネージャーさん達が、高齢者の方々にして下さっているのは、些細な事もあるが、実はその些細な事に、とても神経を使う。人間相手の仕事はとても大変である。コロナ禍、病院、高齢者施設、障碍者施設等で感染があるが、それらは人を相手にし、リモートでは出来ない仕事である。まして、食事等に介助が必要であれば、マスクを外さないわけには行かず、対面を回避することも難しい。そういう人達への理解を忘れずにいたい。
母は、退院後、ベッドを置く準備に、リフォームを業者さんにお願いした。母は私との同居を喜び、友人や業者さん達にも、「娘が一緒に住んでくれることになったのよ。」と話していた。業者さんは、少し前に母に頼まれて括り付けた本棚やクロゼット等を、今度は取り外してほしいと言われ、やや困惑していた。両親は、自分達の近い過去に何をやったか、やって頂いたかを部分的に忘れていることがある。母は、私が病院にお見舞いに行ったことも忘れていた。普段は普通に話しているが、繰り返しは昔から多かったとしても、最近は、話していて、突然、ぽっと穴が開いたように記憶がなくなっている。思い出すかのように、確認するかのように、「ええっと、あなたがくにこで、子供の名前は…。」と唱える。これが老化現象か、認知症か、ママ友たちが言っていたことに、しごく納得する。
ママ友たちは、「そちらは大丈夫?うちは認知症、大変。」と深刻な顔をしながらも、鬱にならないように、明るくふるまっていた。確かに、経験した人でないと分からない苦労は多い。
父が一人きりで脱水症状から立ち直りかけた時、外に出かけたがった。足が動くといっても、よろよろ、機能低下とコロナ禍もあるので、私が仕事から帰るまで待つように伝えた。昼過ぎ、父が一人で出かけないように、足早に帰路につくと、道の向こうから、おかしな格好をした父が歩いてくる。慌てて、「お父様、どちらに?」と聞くと、「お蕎麦を食べに。」と言う。私が言ったことも、私が寝泊りしていることも、何も分かっていないか、忘れている。父に同行してタクシーを拾いに出ると、「あれ、どこに行くんだっけ?」と聞いてくる。「お蕎麦屋さんでしょ。」と言うと、「あ、そうだった。」と。そして、タクシーに乗ると、また、「どこに行くんだっけ?」と再び尋ねる。お蕎麦屋さんに着くまでに何度か同じやりとり。どこに行く時も、この調子。気を付けないと騙されやすい。
色々と経験しながら、ママ友たちの気持ちがとてもよく分かった。自分の仕事もあり、子供たちの将来もあり、それらの生活の中で、自分達の両親(夫側と自分の方と多ければ4人)のことも心配しなければならない。四六時中、一緒にいるわけにはいかないので、そこで介護をして下さる方のお助けが必要になる。多くの友人から介護認定を両親のために取ることを奨められた。困ったことに、介護認定制度を両親が理解できない。介護申請をして、区役所の方がいらしても会おうとしない。会ってしまうと、自分達は施設等に入れられてしまうと思っているようだ。説明してもしても分かってもらえない。
足して180歳の両親との経験を通じて、ほんの一握り、介護の大変さを肌身で知ったと思う。同居しなければわからないこと、沢山ある。夜暗い中、サイレンが鳴ったり、隣で寝ている母の息が荒くて気になったり、知らない間に朝2時か3時に父がアイスクリームを食べていたり…いろいろなことがあった。
友人達の中には、大変な介護生活をしながら家族との別れをされた方々もいる。食事は全て離乳食という難病を抱えたお母様を家族で支えながら最期まで家で看取った友人、不治の病のご主人を勇気づけ車椅子生活を続けながら見送った友人、自ら大病を抱えながら100歳近いお母様のそばに居続けた友人、築地の食材でお料理し車椅子でお母様を散歩に連れて行っていた友人……それぞれに家族愛と、並々ならない苦労がある。私は、これらの友人達を尊敬している。それは、単に友人達が苦労をしているからではなく、その苦労を外にはあまり見せず、いつも朗らかで、さもなければ慈悲の心で、前向きに人生を歩んでいるからである。全く偉ぶることをしない「普通の人」の中に、尊敬すべき人達がいる。
「高齢化社会」と一言で簡単に言うが、その言葉の奥深く、奥底に、どれだけの人々の苦労や支えがあるのだろうか。皆が元気で健全な精神でいられれば良いが、世の中、なかなかそうは行かない。医療や科学技術がこれほど発達しても、コロナ禍で経験しているように、思うように状況はコントロールできないし、人生に不条理はつきものである。まして、人の弱みにつけこむ人達も多い。高齢者詐欺が一向に減らないのも、そうした背景があろう。
「皆がいきいきした社会」、「豊かな社会」とはどういうことか。言うは易し、行うは難し。高齢者でも病人でも、それを介護する方々は、家族でも仕事でも、本当に大変でストレスが溜まることが多いだろう。細かい配慮が必要になり神経も使うだろう。そして、そういう仕事に携わるのは、圧倒的に女性が多い。そのような女性の声が、もっと政策に反映されても良いのかもしれない。そうしたら、日本社会、もっと良くなって行くだろう。
明日、未来への希望を失わず、元気に進んで行きたい。