東京五輪・パラリンピックを終えて本年(2021年)9月23日に書いたブログ、何となくアップせずに、今日(12月30日)になってしまった。
年末を迎え、やはり記録を残して公表しておきたいと思った。よろしければご笑覧下さい。
どうぞ良いお年を。皆でより良い新年にして行きましょう。
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東京オリンピック・パラリンピック2020は、新型コロナウィルスの世界的蔓延により1年延期となった。2021年7月23日に東京オリンピックが開幕し、(8月8日に東京五輪閉幕の後、8月24日に開幕した)東京パラリンピックが9月5日に閉幕し、一連の東京オリ・パラの一大イベントは終了した。
「終わり良ければ全て良し」という言葉があるが、あまりに色々と紆余曲折のあった東京オリ・パラだった。が、コロナ禍という大変な環境の中で、大きな台風、地震、テロ等に見舞われずに無事終了したことは、多くの日本人が安堵したことだろう。
思えば、2013年、東京でのオリ・パラ開催が決まった日、新聞が号外を出すほど、日本中が湧いた。2011年に東日本大震災という未曽有の大規模災害を経験した日本にとって、大きな希望と夢を与えてくれた瞬間だった。そして、「復興五輪」と名づけられるほど、被災地の方々を勇気づけた。
筆者は、津波の最大の被災地となった石巻市の市民の方が、「1964年の聖火台を被災地へ、聖火リレーの出発点を石巻へ」という運動をされたり、復興祈念公園の構想を練ったりされている時に、少なからず相談を受けた。そのご縁から、2015年2月28日~3月1日、仙台から東松島市を通って、石巻市、さらに女川町まで足を運んだ。2018年3月4日には、1964年東京五輪の聖火台が設置された石巻を訪れ、聖火台を磨きつつ、室伏広治選手にオリンピックの意義を伺った。
2018年6月23日(オリンピック・デー)に、筆者は、『オリンピックと日本人の心』
(内外出版)を上梓した。
オリンピックと日本人の心 - 内外出版株式会社 (naigai-group.co.jp)
本書は、日本文化チャンネル桜を始め、デモクラTV、Noborder、チャンネルくらら等各種ネット番組やTBS系ラジオ「日本のかたち」で紹介された。
2019年からは、「オリンピックと日本人の心」をテーマに講演を依頼されるようになった。ロータリー・クラブ等の他、大阪の由緒ある綿業倶楽部、五輪の選手を輩出している自衛隊体育学校、中小企業の経営者団体、足利大学等である。2020年初めには、港区で開催されたイベントで、馬術連盟及び陸上連盟の幹部をお呼びしてシンポジウムを行った。
2019年初め、拙著『オリンピックと日本人の心』を英訳したいとの願ってもみないお申し出を頂いた。日本語原稿を読み直し、英語すなわち外国人用に多少書き変え、2019年に完成した新たな国立競技場についても書き足した。猛暑の中、ロバート・エルドリッヂ先生とお弟子さんが翻訳を仕上げて下さった。2020年、22世紀アートから"The Olympics and the Japanese Spirit"として出版され、世界各地で読めるものとなった。
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2020年の新型コロナ・ウィルスの世界への蔓延は、100年前のスペイン・インフルエンザを想起させる恐ろしいものだった。当初、比較的上手くコントロールしていた日本であり、3月20日には聖火がギリシアから日本の航空自衛隊松島基地(宮城県、ブルーインパルスの本拠地)に到着した。日本では東京オリ・パラ2020をまだ開催できるとの意見もあった。が、筆者は国際的コロナの蔓延を見ていて、日本だけが良ければいいのではない、東京オリ・パラは中止ではなく延期すべきだと主張した。
未来を築く Building Our Future : オリンピック延期の検索結果 (kunikosuzuki.blogspot.com)
そして実際、2020年3月24日、東京オリ・パラ2020は一年延期されることになった。コロナの猛威はなかなか止まなかった(いまだに止まない)。日本国内では、東京オリ・パラは中止すべきとの声まで上がった。が、1年を経て、国際社会は、少しずつコロナへの対処法を学び、アスリート達の希望もあり、コロナ禍の東京オリ・パラ開催を歓迎した。
その結果が、2021年7月から9月にかけての東京オリ・パラの開催であった。
筆者は、アルバイトやボランティアの一員として、現場でお手伝いをさせて頂いた。オリ・パラの組織図から言えば、全く底辺部分での役割である。逆に、だからこそ、何となく全体が見えた。様々な人と接し、権力と関係ない一般のボランティアの人達が、問題山積みの現場を正常に動かすことに尽力していることが分かった。
東京オリ・パラは「無観客」で行われた。「有観客」となったのは、宮城県と静岡県のみだった。当初、東京で予定していた筆者の仕事も無観客でなくなった。が、急遽、宮城で仕事をさせて頂くことになった。7月19日に話が決まり、7月20日夜、宮城に入った。
宮城スタジアムでの7月末のサッカーの競技。地元の方々が、観戦を楽しみにいらした。
五輪の延期でいらっしゃるはずの家族のお一人が亡くなり、代わりの方が来られるケースもあった。なでしこジャパンが出場した後、選手たちが残した言葉があった。
「有観客で有難う。」の一言だった。
なでしこ「有観客ありがとう」 宮城スタジアムにメッセージ | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS (kahoku.news)
外国の選手たちの泊まるホテルに飲食を届ける地元の若いボランティアもいた。
コロナ禍で、外に出られない選手たちに、精一杯の「おもてなし」をされたのだと思う。
宮城での仕事は、朝から晩まで、宿泊先に戻るのがほぼ深夜になることが殆どだったが、地元の人達、日本にいる留学生(中国、フランス、カナダ等)、全国各地(北海道、関東、関西等)から駆け付けたスタッフの皆さんと仲良く楽しく協力して仕事が出来、とても充実した日々だった。
試合のなかった7月29日には、たまたま東松島の航空自衛隊基地でブルーインパルスの飛行訓練が行われるというので、仕事で知り合った友人と出かけた。広い東北の空をのびのびとダイナミックに飛行し、大きな円(輪)を描いていた。
津波で町が流され最大の被災地となった石巻市の復興祈念公園にまで足を伸ばした。駅前も人影は少なく、公園も閑散としていた。ただ、当時の様子を伝える小さな小屋があり、私達は中に入り、静かに展示を拝見した。
「コロナ五輪」となり、「復興五輪」はどこかに置き去りにされてしまったような東京オリンピック2020(+1)だった。が、不思議と私には、思いもかけず宮城に来る機会が訪れ、最終日の7月31日には、仕事を終え、仲間たちと、ふと再び石巻に来て、あの日和山公園(神社)から、町々の灯を暗い夜中に見ることになった。
東北の人々の温かさ、優しさ、辛抱強さ、たゆまない努力、言葉で表せない精神性、そして魂が、暗闇の中の光(希望)となって、語りかけているような気がした。
「ありがとう。」そんな気持ちを残して宮城を後にした。
東京では、7月25日にボランティア活動に入ったが、「オリンピック・ファミリー」のアテンドの仕事が、研修時の話のようには組織的に出来る状況になかった。あまりの混乱に、一日でボランティアを辞めた方もいたが、殆どの方は、どうにか物事を上手く回さなければならないと必死になって創意工夫し協力した。その成果あり、次第にスムーズに事が運ぶようになった。もちろん最後まで試行錯誤で相談しながらだったが、全く初めて会った者同士がチーム・ワークで互いに協力して、乗り切った日々だった。
「コロナ禍の五輪」、筆者は、まさにそのど真ん中にいてしまったようだ。コロナの禍を受けて、東京オリンピックの閉会式の前日、8月7日に発病した。幸い軽症で済んだが、とにかく他人に感染させないように最大限の注意を払って隔離生活を送った。幸い、濃厚接触者を含め1人も私から感染させた人はいなかった。安堵した。
東京バラリンピックのボランティアはどうなるかと思ったら、「大丈夫ならやって下さい。」と医療従事者から言われ、組織委員会からも、「それなら開閉会式のお手伝いを。」ということで、実際、閉会式に関わる事が出来た。
東京パラリンピックの閉会式では、日本の国歌「君が代」の他、次回の開催国フランスの国歌も流れた。高校時代にフランスに留学した筆者にとって第二の故郷のようなフランス。
ここでも不思議な因縁を感じた。
各国の方々からは、「アリガトウ」と声をかけられた。これは、私への御礼の言葉というよりは、滞在中に多くの日本人から受けた「おもてなし」へのARIGATOだと受け取った。
何でもない日本人の優しさ、丁寧さ、相手への思いやり、東京オリンピック・パラリンピックの参加者達には、通じたようである。